最新下級審裁判例

 

広島高裁決定平成21年02月12日

【事案】

1.相手方は,遊技場の経営等を目的とする会社であって,広島県公安委員会から風俗営業の許可を受けて,広島県竹原市α×番16号所在のぱちんこ店「P2」(以下「本件店舗」という。)を経営している。

2.広島県公安委員会は,平成20年11月12日,相手方に対し,次の理由により,同月25日から平成21年2月12日までの80日間,本件店舗における風俗営業の営業停止を命じる処分(以下「本件処分」という。)を行った。本件処分の理由は,相手方は,相手方会社グループの営業本部長P3ことP4,相手方開発事業部室長P5,本件店舗店長P6及びぱちんこの賞品買取業務に従事するP7らと共謀の上,相手方の営業に関し,平成▲年▲月▲日及び同年▲月▲日,5回にわたり,山口県岩国市α×番10号所在の景品買取所において,P7らが,本件店舗の遊技客5人から,本件店舗が遊技客に提供した賞品であるペンダントトップ合計34個を合計3万9100円で買い取り,風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(以下「風営法」という。)23条1項2号に違反したというものであった。

(参照条文)風営法

●2条
 この法律において「風俗営業」とは、次の各号のいずれかに該当する営業をいう。
1号から6号まで略。
七  まあじやん屋、ぱちんこ屋その他設備を設けて客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業
8号略。
2項以下略。

●23条
 第二条第一項第七号の営業(ぱちんこ屋その他政令で定めるものに限る。)を営む者は、前条の規定によるほか、その営業に関し、次に掲げる行為をしてはならない。
一  現金又は有価証券を賞品として提供すること。
二  客に提供した賞品を買い取ること。
3号及び4号略。
2項及び3項略。

3.相手方は,相手方代表者P8ことP9の実父P10ことP11が代表取締役を務めるP1有限会社(以下「P1」という。)のグループ会社である。
 P1のグループ(以下「P1グループ」という。)には,相手方のほかに,有限会社P12,有限会社P13(以下「P13」という。),有限会社P14(以下「P14」という。),有限会社P15(以下「P15」という。),P16有限会社(以下「P16」という。),有限会社P17(以下「P17」という。),P18等多数の会社が存在し,そのすべての代表者は,P10の親族や同人の信頼する者で占められている。
 P1グループは,ぱちんこ店を経営するほか,ラブホテルの経営等も行っている。

4.P1グループ傘下の会社のうち,次の会社は,それぞれ次に挙げるぱちんこ店(合計16店舗)を経営している。P1グループでは,このほかにもぱちんこ店を経営している。

(1) P14

@広島市βの「P19」
A広島市γの「P20」

(2) 相手方

@広島県竹原市の「P2」
A山口県岩国市の「P21」
B山口県岩国市の「P22」
C山口県岩国市の「P23」

(3) P13

@広島県廿日市市の「P24」
A山口県光市の「P25」
B山口市の「P26」
C山口県萩市の「P27」
D山口県下関市の「P28」
E山口県下関市の「P29」

(4) P15 岡山市δの「P15」

(5) P16 山口県周南市の「P30」

(6) P17 福岡県北九州市εの「P31」

(7) P18 山口県大島郡ζの「P32」

5.P1は,P1グループ各社を統括管理する立場にあり,同グループ内ではP1のことを「本社」や「本部」と呼んでいる。P1には同グループ各社の事務所が置かれており,同グループのぱちんこ店の売上管理や経理等はP1で集中管理されている。
 また,P1グループでは,同グループの各ぱちんこ店店長と「担当」と呼ばれるP1と各ぱちんこ店の現場スタッフとのパイプ役の役職者が各ぱちんこ店の売上目標や営業方針を相談し,それがすべてP1へと報告されることになっている。

6.P1グループではP10のみが社長と呼ばれ,同グループでの重要事項はP10の指示によって実行されている。同グループのぱちんこ店は,P10の定めた同グループとしての営業方針に基づき,幹部従業員がその方針に従って各ぱちんこ店の営業方針を決定して営業されている。
 P3ことP4は,同グループでは社長であるP10に次ぐ地位にあって「本部長」と呼ばれ,同グループ内すべてのぱちんこ店の売上げや目標の管理,ぱちんこ店を新規出店する際の関係者との交渉等の業務を行っている。

7.本件店舗の売上金は,経費を差し引いた全額がP1からの指示でP1グループ各社に送金されており,毎日P1に売上状況が報告されていた。本件店舗の従業員の給与は,給料日直前にP1から「P33有限会社」名で給料明細が郵送されてきていた。

【判旨】

1.行政事件訴訟法(以下「行訴法」という。)25条2項は,執行停止の要件の一つとして「重大な損害を避けるため緊急の必要があるとき」と規定し,同条3項は,「重大な損害を生ずるか否かを判断するに当たっては,損害の回復の困難の程度を考慮するものとし,損害の性質及び程度並びに処分の内容及び性質をも勘案するものとする」と規定する。これらの規定によれば,本件処分のような営業停止を命じる行政処分の場合は,当該処分によって相手方の営業が完全に破綻するとまでは認められなくとも,営業を悪化させる重大な影響が生ずるおそれがあり,通常の営業に回復するまでに重大な損害が起こり得るという場合などにおいては,事案の実情に即して執行停止が認められ得ると解される。

2.ところで,本件において,本件店舗を営業している相手方は,形式的には一つの独立した会社という形態をとっているものの,相手方は,P1を頂点とするP1グループの1社であって,その指揮命令系統や資金の流れなどを考慮すれば,その法人格はほとんど形骸化しており,経済的な実態としては,あたかもP1グループという一つの会社の一部門と同視し得るものである。したがって,本件において重大な損害を生ずるか否かを判断するに当たっては,形式的な存在である相手方のみを考慮するのは相当ではなく,その実質に着目してP1グループ全体への影響を考慮して判断すべきである。
 そこで,本件について検討するに,P1グループは,本件店舗以外にも多数のぱちんこ店やラブホテルを経営していることが認められるものの,その全容は明らかでなく,本件店舗における営業が80日間停止された場合に,P1グループの営業を悪化させる重大な影響が生ずるおそれがあり,通常の営業に回復するまでに重大な損害が起こり得るかどうかは明らかでない。
 したがって,本件においては「重大な損害を避けるため緊急の必要があるとき」の疎明はない。

3.以上によれば,その余の点について判断するまでもなく,相手方の執行停止の申立ては却下すべきであり,本件抗告は理由がある。

 

さいたま地裁判決平成21年06月24日

【事案】

1.原告が,新座市内において,被告市長から家庭保育室の指定を受けて家庭保育室を運営していたところ,平成20年8月8日,被告市長が,交付された委託料等の帳簿類の5年間の保存を怠っていたこと,帳簿類を改ざんし,委託料を不正に受領したこと及び臨時保育者を常勤保育者と偽って委託料を不正に受領したことを理由として,家庭保育室の指定取消しを行ったため,これを不服とした原告が,被告に対し,家庭保育室指定取消しの取消しを求めている事案。

2.前提事実

(1) 被告市長は,新座市において,新座市家庭保育室委託事業実施要綱(本件要綱)に基づいて,家庭保育室の指定及びその取消しを行う行政庁である。

(2) 原告は,埼玉県新座市BC丁目D番E号において,施設長として無認可保育室を開設し,平成16年5月A 1日付けで被告市長から家庭保育室の指定を受けた。その後,原告は,平成19年8月15日付けでAの所在地を埼玉県新座市BC丁目F番G号に変更し,以後同所においてAを運営してきた。
 被告市長による家庭保育室の指定は年度ごとに行うものとされているため,原告は,平成20年4月1日,被告市長から,期間を同日から平成21年3月31日までとする家庭保育室の指定(本件指定)を受け,平成20年4月1日,被告との間で,契約期間を同日から平成21年3月31日までとし,被告が原告に対して乳幼児の保育業務を委託する旨の新座市家庭保育室事業委託契約(本件委託契約)を締結した。

(3) 平成20年8月8日,被告市長は,原告に対し,@交付された委託料,保護者が負担した保育料等の収入,支出等の帳簿類の5年間の保存を怠っていたこと,A帳簿類を改ざんし,児童の入室日及び退室日を偽って委託料を不正に受領したこと,及びB臨時保育者を常勤保育者と偽って委託料を不正に受領したことを理由として本件指定を取り消す(本件指定取消し)旨の通知,あわせて,上記@ないしBの理由に加え,本件要綱に定める各事項を遵守しなかったことを理由として,本件委託契約を解除する旨の通知を行った。

3.法令の定め

(1) 児童福祉法(児福法)24条

1項 市町村は,保護者の労働又は疾病その他の政令で定める基準に従い条例で定める事由により,その監護すべき乳児,幼児又は第39条第2項に規定する児童の保育に欠けるところがある場合において,保護者から申込みがあったときは,それらの児童を保育所において保育しなければならない。ただし,付近に保育所がない等やむを得ない事由があるときは,その他の適切な保護をしなければならない。

(2) 本件要綱

1条(趣旨)

 この告示は,児童福祉法(昭和22年法律第164号)第24条第1項ただし書に基づく保育の実施を行うため,家庭保育室委託事業(以下「事業」という。)に関し必要な事項を定めるものとする。

2条(定義)

 この告示において,次の各号に掲げる用語の意義は,当該各号に定めるところによる。

家庭保育室 自宅その他の施設(児童福祉法第35条第4項の認可を受けているものを除く。)において,保護者の就労,疾病等により保育に欠ける乳児及び幼児(以下「乳幼児」という。)を保育する施設をいう。

10条(家庭保育室の指定等)

1項 家庭保育室の指定を受けようとする者は,次の調書を添付の上,新座市家庭保育室指定申請書を市長に提出しなければならない。

設置者・保育者の調書
保育設備調書
賠償責任保険加入調書
傷害保険加入調書

2項 市長は,前項の申請があったときは,その内容を審査し,指定するものにあっては,新座市家庭保育室指定書を交付するものとする。

3項 設置者は,第1項の申請内容に変更があった場合,新座市家庭保育室内容変更申請書を提出しなければならない。

4項 第2項の指定をしたときは,設置者と委託契約を締結するものとする。

13条(委託料の請求及び支払)

1項 設置者は,対象乳幼児の保育を実施した月ごとにその翌月10日までに新座市家庭保育室委託料請求書に委託料請求額内訳書を添えて,市長に委託料を請求するものとする。

2項 前項に定める委託料は,請求のあった日から1か月以内に設置者に支払うものとする。

15条(家庭保育室の廃止等)

2項 市長は,次の各号のいずれかに該当する場合は,家庭保育室の指定を取り消すことができるものとする。

設置者又は保育者が,この告示に定める事項に違反したとき。
家庭保育室の設備が,基準に適合しなくなったとき。
設置者が,市長の命令又は指導に従わなかったとき。

【判旨】

1.行政事件訴訟法3条2項は,処分の取消しの訴えについて「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為(処分)の取消しを求める訴訟をいう」と規定しており,ここに定める処分とは,公権力の主体たる国又は公共団体が行う行為のうち,その行為によって直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものをいう。そこで,本件指定取消しが処分に該当するかにつき検討する。

2(1) 本件要綱は,家庭保育室の設置を希望する者にあらかじめ被告市長に対する家庭保育室指定申請書を提出させ,被告市長はその内容を審査して,家庭保育室の指定をした上で,その者と委託契約を締結することとしている。この点につき,原告は,家庭保育室の設置を希望する者は,家庭保育室の指定を受けることにより委託料の請求が可能となり,本件要綱で定める義務を負うことになると主張する。

(2) 本件要綱の定める家庭保育室は,児福法上無認可保育施設に当たるところ,無認可保育施設には同法45条の定める児童福祉施設の設備及び運営についての最低基準の規定が適用されず,同法59条の措置を除けば特段の規制をしていない。しかし,かかる施設において保護を受ける児童の心身の健全な育成を図るためには,一定の水準を具備した施設の設備や運営が整えられていることが望ましい。
 そのため被告は,本件要綱において,家庭保育室の設置者として遵守すべき基準を定め,同施設の設置を希望する者にあらかじめ申請を行わせ,乳幼児の保護の見地から定められた本件要綱の基準を満たしているかどうかを審査し,本件要綱の定める基準を満たす場合にのみ家庭保育室の指定を行い,その上で保育業務の委託契約を行うこととし,これによって,無認可保育施設に対する保育業務の委託において,被告に義務づけられている保育所における保育に代わる適切な保護が確保できるようにしたものと解される。
 そして,本件委託契約において委託料の定めを本件要綱にゆだねている趣旨は,行政主体が契約の一方当事者となる以上,契約内容についても一定の公平性及び透明性の確保が求められることから,告示として定められ公開されている本件要綱で委託料の内容を定めることにしたものと解される。
 このような,本件要綱の定め及びその趣旨に照らすと,本件要綱において被告市長が家庭保育室の指定をすることによって指定を受けた者に当然に委託料請求権等を発生させることを予定しているということはできず,保育業務の委託契約に従って業務を遂行したことによって発生すると解するのが相当である。そうであれば,保育業務の委託契約によって発生した権利等は,家庭保育室の指定取消しではなく,委託契約の解除によって消滅すると解するのが相当である。また,家庭保育室の指定を受けることによって指定を受けた者は,保育業務の委託を受けうる地位を取得するとしても,契約当事者のいわば適格を与えられたにすぎず,これをもって権利義務を形成したとまではいえない。

(3) したがって,家庭保育室の指定及びその取消しは,直接国民の権利義務を形成し,又はその範囲を確定するものではなく,本件指定取消しには処分性がない。

3(1) 家庭保育室の指定及びその指定取消しは,いずれも,本件要綱に基づくものであるところ,上記の本件要綱の定め及びその趣旨からすれば,本件要綱のうち家庭保育室の指定及びその取消しに関する部分は法規と同視できるものではない。
 また,児福法24条1項ただし書は,市町村に対し,児童に対する保育所における保育に代わる適切な保護を義務づける規定であって,市町村以外の主体の運営する家庭保育室のような施設の設置や基準等について下位の法令等に委任する文言がない以上,家庭保育室という施設の設置や基準等について委任したものとは解されない。したがって,家庭保育室の指定及びその指定取消しについての本件要綱の定めが,児福法の委任を受けたものと解することもできない。
 よって,家庭保育室の指定及びその取消しは,法律に基づくものではなく,この点からしても処分性がない。

(2) なお,本件要綱に基づく家庭保育室委託事業の対象となる乳幼児(対象乳幼児)の認定承認却下の通知書においては,これが処分に該当することを前提として,この処分の取消しの訴えは新座市を被告として提起することができる旨の記載があり,このことから,原告は,本件要綱が法規であるか,又は児福法の委任を受けていると主張する。
 しかし,上記のとおり,児福法24条1項ただし書は,市町村に対し,児童に対する保育所における保育に代わる適切な保護を義務づける規定であり,本件要綱のうち保育所への入所を必要とする乳幼児が保育に代わる適切な保護を受けられる要件等に関する定めは,上記ただし書の委任を受けたものであると解することができる。したがって,これに基づく対象乳幼児認定承認却下は処分に該当するということができるのであって,これによって,家庭保育室の指定やその取消しに関する部分も上記ただし書の委任を受けたものであると解することができるわけではない。

3.その他,家庭保育室の指定及びその指定取消しに対し不服申立を認める特別の法令が置かれているということも認められず,ほかに家庭保育室の指定及びその指定取消しが処分であることを前提とする法令の定めも認められない。
 以上によれば,本件指定取消しは,それにより直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものであるということはできず,処分に該当するとは認められない。

 

名古屋高裁判決平成21年07月23日

【事案】

1.本件は,銀行である被控訴人に普通預金口座を有し,預金債権を有していた控訴人が,預金通帳を窃取され,無権限者に預金の払戻しがされたと主張して,被控訴人に対し,預金契約に基づき,払い戻された預金額相当の預金189万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日から支払済みまでの商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を求める事案であり,被控訴人は,普通預金規定所定の免責約款による免責及び債権の準占有者に対する弁済の抗弁を主張し,その支払義務を争っている。

2.前提事実

(1) 預金債権の存在

 控訴人は,被控訴人(銀行業務を営む株式会社)に対し,次のとおりの預金債権を有していた(以下「本件預金」という。)。

@ 口座開設支店  A支店
A 口座の種類  普通預金
B 口座番号  △△△△△△
C 口座名義人  控訴人
D 平成19年4月24日の取引開始時の口座残高  197万5373円

(2) 預金の払戻し

 平成19年4月24日,被控訴人のB支店において,本件預金口座から,189万円が払い戻された(以下「本件払戻し」という。)。

(3) 盗難被害

 控訴人は,平成19年4月23日から同月24日までの間に,いわゆるピッキング盗の被害に遭い(以下「本件盗難」という。),自宅に保管中であった本件預金通帳を窃取された。

(4) 本件払戻しの請求者

 訴外CことD(以下「D」という。)は,上記窃盗犯人グループから本件預金通帳と印鑑を受け取り,その指示に従い,控訴人になりすまして,本件払戻しの請求手続をした(以下「本件払戻請求」という。)。

(5) 免責規定

 本件預金に関し,普通預金規定には,「払戻請求書,諸届その他の書類に使用された印影を届出の印鑑と相当の注意をもって照合し,相違ないものと認めて取り扱いましたうえは,それらの書類につき偽造,変造その他の事故があってもそのために生じた損害については,当行は責任を負いません。」との規定がある(以下「本件免責規定」という。)。

【判旨】

1.本件払戻請求書に押捺された印章について

 本件払戻しに際しては,払戻しに現れたDは被控訴人の照合事務担当者のEの面前で印章を取り出して本件払戻請求書に押捺しているが,控訴人は,本件預金通帳の届出印(本件届出印)を窃取されておらず,本件訴訟において本件届出印により顕出した印影を甲第4号証として提出している。
 そして,甲第4号証に顕出されている9個の印影,原審で相被告であった銀行(以下「原審相被告銀行」という。)の印鑑紙に顕出されている印影2個,原審相被告銀行における払戻請求書に顕出されている印影,原審相被告銀行が上記の印影を印鑑照合機により照合している状況を撮影した写真,被控訴人の印鑑紙に顕出されている本件届出印の印影,本件払戻請求書2通に顕出されている印影3個によると,本件払戻請求書の各印影と本件届出印影とはその文字の骨格(印影の文字線の中心部分を連結することにより想定できる文字線)がほぼ一致していること,一見すると,「山」の文字が印象が極めて類似していることからして,本件払戻請求書に押捺された印章は,本件届出印の印影を用いて偽造されたもの(以下「本件偽造印」という。)と認められる(付言するに,古くから,写真の技術とエッチングの技術を用いる方法等により印影から印章を作成し印影を偽造することが可能であると指摘されてきた。そして,近時は,技術の進歩により,印影を写真的に撮影し,それを感光性樹脂に転写して印面の凹凸パターンを再現する方法,印影を拡大スキャンしてそれ自体を印稿として彫刻機により印章を作成する方法等もあると指摘されている。本件払戻しに際して使用された印章がどのようにして作成されたものであるかは不明であるが,本件預金通帳と同時に盗難にあった郵便貯金の通帳に副印鑑として本件届出印の印影が顕出されていたことからして,その印影を用いて作成されたものと推認できる。)。

2.本件払戻しが債権の準占有者に対する弁済として有効かどうかについて

 本件払戻請求書の各印影と本件届出印影とが同一の印章により顕出されたものと判断した被控訴人の担当者の印鑑照合につき過失がなかったかどうかを判断するに,一般に,払戻請求書によって預金の払戻しが請求された場合,当該払戻請求書上の印影と届出印影とを照合するに当たっては,銀行の担当者は,金融機関としての銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待される業務上の相当の注意をもって慎重に行うことを要し,銀行の照合事務に習熟している銀行員がこのような相当の注意を払って熟視すれば肉眼を持っても発見し得るような印影の相違が看過されたときは当該担当者に過失があるものと解するのが相当である。
 そして,銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待される業務上の相当の注意がどのようなものであるかは,前示のような印章偽造技術の進歩やその悪用例の存否等とも関連するところ,副印鑑制度は,盗んだ通帳の副印鑑から印章を偽造し,払戻し書類にその偽造印章を押捺して預金を引き出すなどの不正引出事件が後を絶たないために平成15年頃までにほとんどの銀行で廃止されていたものであり,被控訴人においても,本件払戻しがされた平成19年4月24日の時点では廃止されていた。しかし,副印鑑制度がなくなった後も,副印鑑の顕出されている古い預金通帳を保存している預金者もあり,既存の印影を利用して印章を作成しそれを悪用するおそれがなくなったわけではない。
 したがって,照合事務担当者としては,少なくとも次の3点を念頭において照合をする必要があるというべきである。第1は,既存の印影を写真撮影,スキャン等して印章が偽造された場合には,当該偽造印章により顕出された印影は,一見して元の印章による印影と極めて類似していること,第2は,重ね合わせ等により印影の文字線や円周線を比較するのみでは,両印影が異なる印章により顕出されたものであることを見抜くことは困難な場合があり,偽造印の文字線をやや細くする等の修正がされていると文字線の太さ(幅)の差を印肉,紙質,押捺の圧力等の押捺時の条件の差によるものと見間違いやすいこと,第3は,払戻請求書の印影に届出印影と差異がある場合において,それが印章の相違から来るものであるときは,当該印章により何度印影を顕出しても同一の差異が見られることである。
 そこで,以上の点を前提として本件払戻請求書の各印影と本件届出印影とを比較するに,前示のとおり,被控訴人の照合事務担当者であったEは,印鑑照会機を用いて本件届出印影を表示した上,本件払戻請求書の印影を真ん中で半分に折り,画面上の本件届出印影に重ねたりして確認し,印影が一致すると判断している。しかし,上記の重ね合わせによる照合では,印影の文字線の骨格の比較に近くなり,偽造印章の文字線が実際よりやや細く修正されていると,印肉,紙質,押捺の圧力等の差によるものと見間違いやすいといえる。
 したがって,印影の照合において,最も重要なのは,平面的な比較照合であり,その点を認識した上での照合がされておれば,印影の差が認識できたかどうかが最も重要となる。そこで,本件届出印影と本件払戻請求書の各印影とを比較すると,一見して,本件払戻請求書の各印影の「H」の「森」の文字線が本件届出印影の文字線より細いことが目につく。同時に,本件払戻請求書の各印影の「山」の方は,文字線が太い。そして,印影の円周線を見ると,本件届出印影の円周線は,明らかに「山」及び「森」の文字線よりも細いが,本件払戻請求書の各印影では,円周線が「森」の文字線とほぼ同じ太さであり,場所によっては,より太いように見えるところがある。
 しかも,その「森」の文字線は全体として細く,かつ,多くの線(特に上の「木」)が鮮明であり,文字線のかすれがほとんどない。そして,本件払戻請求書の各印影は,全体として鮮明であって,「森」についても,印章の文字線がそのまま表示されていると見られるものであり,印肉の付着が少なかったこと,印肉の付着が均衡でなかったこと,押捺に際して印章がずれたこと,印章の二重押しがされたこと,紙質が不良であることなど,印章の文字線が不正確となる要因があったことをうかがわせる特徴は見当たらない。また,本件払戻請求書の各印影を相互に比較対照すれば,共に上記の各特徴を備えており,一見して,両印影が同一の印章によるものであることが分かる。
 以上指摘した本件届出印影と本件払戻請求書の各印影との印影相互の相違は,印影照合事務に習熟した者が相当の注意力をもってすれば,平面照合により容易に確認することができるものであるといえる。
 特に,平面照合の重要性を認識しておれば,印影を最初に見たときの印象(美感を含む。)が重要であり,そのような基本的な意識の下に本件届出印影と本件払戻請求書の各印影を比較対照すれば,本件払戻請求書の各印影の「森」の文字線が本件届出印影の文字線より細いことに容易に気付いたはずである。そして,その点に気付けば,上記のように文字線と周囲円について各印影を比較対照するはずであり,本件払戻請求書の各印影と本件届出印影との差異が,紙質,押印時における着肉量,押圧力,押圧台等の使用条件の違いによるものではなく,印章そのものの相違によるものであることに気付いたはずである。特に,本件届出印影との比較の後,本件払戻請求書の各印影を相互に比較し,それらの類似性が顕著であることに気付けば,本件偽造印を手にとって,その印面を確認するとともに,本件偽造印を本件払戻請求書に押捺することにより,その印影とも比較対照すれば,本件払戻請求書の各印影と本件届出印影との差異が印章の差異によるものであることに気付いたはずである(被控訴人は,その場で印章を受け取り,何度か押して見比べることが全く非現実的であると主張するが,印鑑照合に必要であれば適宜行うべきであり,本件においても,特段の支障があったとは認められない。)。
 ところが,被控訴人の照合事務担当者Eは,証人として,当初,本件払戻請求書(2通)に誤って「H」の丸印が押されていたので,押し直された印影(楕円形)については,本件届出印影と念入りに対照した旨供述するが,その対照の仕方については,印鑑照会機に映し出された本件届出印影(等倍)と本件払戻請求書の印影を横に並べて見比べた後,本件届出印影の上に本件払戻請求書の印影を重ねた上透かして比較照合して,印影全体の大きさなどを見比べ,その後,払戻請求書の印影を半折りし,それを印鑑照会機に当てたまま,右半分を動かしたり,左半分を動かしたりして,全体の大きさ等を確認した旨供述するが,印影の文字線の太さの差異については,異なる印章によると判断するほどの差異はなかった旨供述している。そうすると,被控訴人の照合事務担当者が,印鑑照会機上での重ね合わせによる照合を重視していたことは明らかであり,半折りしての照合も,文字線及び周囲円の骨格の比較をした程度のものであったものと認められる(なお,前示のとおり,本件においては,I 調査役が印鑑照会機を用いて二重チェックをしているが,Eと同じような方法程度の照合であったものと推認できる。)。
 そうすると,本件払戻請求書の各印影を本件届出印によるものと判断した被控訴人の照合事務担当者には過失があるというべきであり,被控訴人の担当者が本件払戻請求をしたDを正当な権利を有する者と信じたとしても,本件免責規定にいう「相当の注意をもって照合した」とはいえず,また,そのことに過失がなかったものということはできないから,本件払戻しは,債権の準占有者への弁済として有効とはいえず,控訴人の預金債権を消滅させ得るものではない。
 なお,本件において被控訴人は,本件届出印影の印鑑票そのものではなく,それを印鑑照会機に映し出したものと比較照合しているが,証拠によると,被控訴人の印鑑照会機は,朱色を表示することはできないが,本件届出印影の前示の特徴を把握できる程度に鮮明に表示する機能を有するものと認められるので,上記の比較対照の方法の差異は,上記判断を左右するものではない(仮に,被控訴人の印鑑照会機が届出印影の特徴を十分把握できるものでないとすれば,そのような印鑑照会機により照合することに過失があるということになる。)。

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