危険の現実化説を用いる際の注意点

1 行為時の特殊事情(被害者の特異体質等)の処理

 危険の現実化説を一般論として採用する場合に、注意を要するのは、行為時の特殊事情の処理です。例えば、甲が、Vに対してカッターナイフで切りかかり、軽い切り傷を負わせたところ、通常人では死亡するはずはなかったのに、Vが血友病であったために失血死した、というような場合です。
 まず、やってはならないのは、この場合には相当因果関係説で処理する、という方法です。これは、行為時の事情と行為後の事情でなぜ基準を使い分けるのか、説明を要するでしょう。しかも、行為時の事情と行為後の事情は、必ずしも明瞭に区別できるものではありません。例えば、甲が、Vを殴って気絶させたところ、その後、付近にいたハブに噛まれて死亡したという事例の場合、ハブに噛まれたのは行為後ですが、ハブが付近にいたことは行為時の事情ともいえます。また、甲がVに暴行を加え、Vが逃走するため吊橋を駆け渡ろうとしたところ、吊橋が腐っていて崩落し、Vが死亡したという事例においても、吊橋崩落は行為後ですが、吊橋が腐っていた事実は行為時の事実ともいえます。このようなことから、行為時の事情と行為後の事情とで基準を使い分けるのは、問題が大きいのです。このことは、近時の早稲田ローの入試問題の出題の趣旨でも指摘されているところです。

 

2014年度 早稲田大学大学院法務研究科法学既修者試験 論述試験刑法(出題の趣旨)より引用、太字強調は筆者)

 まず、乙に関しては、A・Bの致死結果との関係で傷害致死罪の成否が問われるが、自動車で衝突して傷害を負わせるという実行行為と、A、Bの致死結果との間に、それぞれ刑法上の因果関係が認められるかが問題となる。Aに関しては、行為時点で知り得なかった被害者の持病があいまって結果が生じた点Bに関しては、行為後に看護師の重大な過失行為が介入した点がポイントであり、危険の現実化や相当因果関係説などの考え方を示して結論を導くことになろう(Aとの関係では折衷的相当因果関係説に立って因果関係を否定し、Bとの関係では、行為の危険性の大小、介入事情の異常性の大小、介入事情の寄与度の大小を総合的に考慮すべきで、これが「危険の現実化」の判断であるとした上で、本件では因果関係が肯定されるとする答案が多く見られた同じく因果関係を問題にしながら事例類型によって異なった基準を援用するのであれば、そこに説明が必要かもしれない。少なくとも、それらの判断基準の理論的な関係や異同については十分考えておいてほしい)。

(引用終わり)

 

 従って、行為時の事情の場合にも、危険の現実化を基準として考えるべきことになります。そこで、次にやってはならないのは、例えば、「カッターナイフで切り傷を負わせて、その傷からの出血で失血死したのだから、行為の危険が結果に現実化したといえる」などと簡単に危険の現実化を肯定してしまうことです。これでは、事案の問題意識を的確に捉えたとはいえません。ここでの問題意識は、被害者の死の結果は、行為者の行為の危険によるのか、それとも、被害者の特殊な体質の危険によるのか、ということです。
 ここで、危険の現実化説は、客観的帰属論「的」な考え方であることを想起する必要があります(なお、我が国の「危険の現実化説」は飽くまで因果関係の枠内の議論ですから、許された危険や答責領域性、規範の保護目的や未遂危険の帰属等は問題となり得ない以上、客観的帰属論そのものではないことに注意が必要です)。すなわち、発生した結果を行為者に帰属させる「べきか」という規範的判断によって結論を導く必要がある。
 血友病事例でいえば、被害者の死の結果は、確かに被害者の特異体質が原因となっているでしょう。しかし、そのリスクは、被害者に負わせるべきでしょうか。すなわち、血友病患者は、絶えず他者から軽微な切り傷を負わされることのないよう、注意して生活すべきである(すなわち、刑法はそのような場合には被害者を保護しない)、ということが妥当なのか。それとも、行為者が他者の身体に不法な侵害を加えた以上、他者の特異体質による重篤な結果についても責任を負うべきである(すなわち、刑法はそのような場合にも被害者を保護する)、ということが妥当なのか。一般には、後者が妥当だと考えられています。このことを、端的に指摘すべきなのです。
 司法試験定義趣旨論証集(刑法総論)では、客観的帰属論の立場から比較的よく用いられる言い回しを用いてコンパクトに理由付けをしています。

2 因果関係の錯誤の処理

 因果関係の錯誤については、「錯誤が相当因果関係の範囲にとどまる限り故意を阻却しない」などと論証する人が多いと思います。しかし、因果関係について相当因果関係説を採用しないのに、上記のように論証することは論理矛盾です。
 上記の論述の言いたいことは、要するに、行為者の認識において法的因果関係が認められるならば、錯誤は構成要件の範囲にとどまるから、法定的符合説からは故意を阻却しないということです。司法試験定義趣旨論証集(刑法総論)では、そのことを端的に示す論証にしています。具体的な当てはめとしては、行為者の認識した事実において危険の現実化が認められるかを検討することになります。

3 不能犯の処理

 不能犯は、出題頻度がそれほど高くないためか、あまり問題意識を持っていない人が多いのですが、ここは因果関係論とパラレルな関係にあります。因果関係において基礎事情を問題にせず、客観的に判断するのであれば、不能犯の場合にも、具体的危険説は採りにくいことになる。厳密には、行為の危険性は事前判断であるが、結果の帰属は事後判断であるという理論構成はあり得るとは思いますが、論文試験でそのようなことを説明する余裕はないでしょう。従って、危険の現実化説を採用するのであれば、不能犯においても客観説を採用することになるわけです。また、前回の記事(「折衷的相当因果関係説か危険の現実化説か」)で述べたことと同じこと、すなわち、規範や当てはめの長さ、硬直性というデメリットは、具体的危険説にも同様に妥当するということも、客観説を採用する理由となります。
 判例は、絶対・相対不能説と言われますが、実際には、修正客観説に近い説明をしています(少なくとも、基礎事情を確定して、その後に危険性を判断するという二段階の判断はしていません)。司法試験定義趣旨論証集(刑法総論)でも、それに沿った論証にしています。不能犯の当てはめは、厳密に考えて論理的に結論が導かれるという感じではありません。結果発生が「あり得た」か「あり得なかった」かは、どうとでも言える部分があるからです。ここは、あまり深く考えずに、多数派の採りそうな結論や構成しやすい結論を簡単に説明できることがポイントです。不能犯は、因果関係とは違って、あまり論点としてのウエイトが高くないことが多いということを、覚えておくとよいと思います。とにかく、コンパクトに処理する。不能犯の論点については、当てはめは「勝負」するところではなく、「軽く流す」という程度のものだという認識でよいでしょう。その意味では、基礎事情論をわざわざ論じなければならない具体的危険説は、因果関係のときの折衷的相当因果関係説以上に、論文では不利な説ということになってしまうのです。

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