1.憲法は、これまで一貫して、いわゆる三者形式で出題されていました。昨年の例でいえば、以下のような出題形式です。
(平成29年司法試験論文式公法系第1問の問題文より引用)
〔設問1〕
あなたが弁護士甲であるとして,上記の国家賠償請求訴訟においてどのような憲法上の主張を行うかを述べなさい。なお,憲法第14条違反については論じなくてもよい。
〔設問2〕
〔設問1〕で述べられた甲の主張に対する国の反論を想定しつつ,憲法上の問題点について,あなた自身の見解を述べなさい。
(引用終わり)
この出題形式の特徴は、以下のようなものでした。
① 違憲の主張をほぼフルスケールで論じる必要がある。
② 想定される反論は、合憲の主張である。
③ 被侵害法益の主体は、通常1人である(他の主体が存在する場合、第三者の権利の援用が問題となる。)。
④ 訴訟の形式をとることから、訴訟形態を問うことができる。
それが、今年は、以下のような出題形式に変わりました。
(問題文より引用)
〔設問〕
あなたがこの相談を受けた法律家甲であるとした場合,本条例案の憲法上の問題点について,どのような意見を述べるか。本条例案のどの部分が,いかなる憲法上の権利との関係で問題になり得るのかを明確にした上で,参考とすべき判例や想定される反論を踏まえて論じなさい。
(引用終わり)
これが、今年の憲法における最大の特徴といえるでしょう。この出題形式が、従来の三者形式と異なるのは、以下のような点です。
① 違憲の主張についてフルスケールで論じることは必ずしも必要ではなくなった。
② 想定される反論が何に対する反論なのか、合憲の主張なのか違憲の主張なのか、判然としなくなった。
③ 被侵害法益の主体を複数問うことができるようになった。
④ 訴訟形態を問うことはあまり想定されなくなった。
⑤ 侵害法益と条文の規定との対応関係を明確にすべきことが明示された。
⑥ 参考とすべき判例を解答すべきことが明示された。
今回、出題形式が変わったのは、上記の③の要因によるところが大きいのだろうと思います。
(問題文より引用。太字強調は筆者。)
甲:規制の対象となる図書類の範囲や,規制の手段,内容について,議論があり得ると思います。図書類を購入する側と販売等をする店舗の双方の立場でそれぞれの権利を検討しておく必要がありそうですね。図書類を購入する側としては,規制図書類の購入等ができない青少年と18歳以上の人を想定しておく必要があります。また,販売等をする店舗としては,条例の規制による影響が想定される3つのタイプの店舗,すなわち,第一に,これまで日用品と並んで規制図書類を一部販売してきたスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの店舗,第二に,学校周辺の規制区域となる場所で規制図書類を扱ってきた店舗,第三に,規制図書類とそれ以外の図書類を扱っている書店やレンタルビデオ店を考えておく必要があるでしょう。
(引用終わり)
本問では、「青少年」及び「18歳以上の人」並びに「これまで日用品と並んで規制図書類を一部販売してきたスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの店舗」、「学校周辺の規制区域となる場所で規制図書類を扱ってきた店舗」及び「規制図書類とそれ以外の図書類を扱っている書店やレンタルビデオ店」の5者が法益主体として想定されています。従来の出題形式を前提にすると、上記の5者が一斉に訴訟を提起したり、次々と弁護士に相談に来る、という展開になるわけですが、これはおかしい。それで、本問のような出題形式になったのでしょう。そのことからすれば、来年以降も同じ出題形式になるのか、あるいは、従来の出題形式に戻るのかは、法益主体を複数想定するかどうかによる、ということになりそうです。「どのような意見を述べるか」という問い方になったのも、従来どおり、「どのような憲法上の主張を行うか」という問い方では、相談に来たXに対して主張をぶつけることになっておかしいから、自然な表現ぶりにしたというだけでしょう。司法試験界というのは不思議なもので、本問のような出題形式がされると、「実務における意見書の書き方が問われました! これからは実務における法律意見書・リーガルオピニオンの書き方の知識がないと憲法で点が取れません!」などという言説が流布されたりします。このようなものは、ほとんど悪質なデマといってよいものですから、相手にしないようにしましょう。例えば、「実務における法律意見書・リーガルオピニオンでは、「合憲である。」とか、「違憲である。」みたいに断定しませんから! 「…と判断された場合には裁判所において違憲と判断されるリスクがある。」という表現にして下さい!」とか、「単に合憲か違憲かを検討するんじゃないんですよ! 違憲のリスクを避けるためには条例案のどの部分をどのように修正すべきかだとか、条文が違憲と判断された場合に必要となる実務対応についての検討も必須です!」とか、「法律意見書・リーガルオピニオンには冒頭で要旨を入れます。だから、答案でも冒頭に要旨を入れましょう。」などと説明されるかもしれませんが、無視すべきです。出題する側の立場になってみればわかることですが、これまでの経験で、訴訟形態などの憲法論以外のことを問うてしまうと、肝心の憲法論を十分に解答してくれないことがわかっていますから、普通に本条例案の合憲性だけを問いたいのです。事例の設定上、相談者に意見を述べるという形になっているにすぎません。ですから、解答は、従来どおり、端的に「合憲か。違憲か。」を答える。仮に、合憲性以外のことまで問う趣旨ならば、その旨を明示的に設問に入れてくるはずです。例えば、甲とXの会話に以下のようなものを追加する感じです。
(問題文の例)
X:条例案の合憲性に疑義のある部分がありましたら、その部分をどのように修正すれば違憲と判断されるリスクを低減できるかといったことについても、アドバイスを頂ければ助かります。
甲:わかりました。その点についても検討してみましょう。
今後、似たような形式で出題された際に、問われてもいないことを解答してしまわないように、注意が必要です。極端な例ですが、本問では以下のような論述は、本条例案に対する意見としては適切であっても、司法試験の答案としては無意味な論述です。
【論述例】
1.本条例案には、「販売し又は貸与する」との表記が複数みられるが、「又は」の直前の語が副詞、形容詞又は動詞である場合には、「又は」の直前に読点を打つのが通例であるから、「販売し、又は貸与する」の表記に改めるのが適切と思われる。
2.本条例案7条2号では、「衣服の全部又は一部を着けない者」との文言が用いられているところ、同号の対象には漫画等において描写された人物をも含むことが意図されている。しかし、一般に、「者」とは、法人格を有する主体、すなわち、自然人又は法人を指すものとされ、法人格を有する主体に限らない場合には「もの」と表記するのが通例であるから、上記部分を「衣服の全部又は一部を着けないもの」と改めるのが適切と思われる。
また、答案に書く際に、「私がこの相談を受けた法律家甲であるとした場合、以下の意見を述べる。」のような無駄な記述は必要ありません。参考答案のように、端的に書き出すべきです。このことは、従来の出題形式において、「私がXの訴訟代理人であったならば、以下のような憲法上の主張をする。」などとわざわざ書かないことと同様です。
さて、本問の出題形式になったことで悩ましいのは、上記②の「想定される反論」の位置付けです。従来であれば、違憲を主張する原告に対する反論であることが明確だったので、合憲の主張をすればよかったのです。しかし本問の場合、以下の3つのいずれであるかが必ずしも明確ではありません。
① 「意見」に対する反論。
② 「参考とすべき判例」に対する反論。
③ A市の主張に対する反論、すなわち、違憲の主張。
このような場合は、現場で厳密に考えても、うまくいかないことがほとんどです。この問題文を見た時点で、少し想像力を働かせる必要があるのです。問題文から明確でない以上、受験生の答案は、上記の3つの書き方で割れるでしょう。そうなると、採点段階において、「想定される反論」の内容をあまり厳格にして配点を設定してしまうと、特定の書き方をした人以外は反論部分が零点になってしまいかねないので、「対応する内容が書いてあれば、「反論」として書いていなくても評価する。」という採点方針にならざるを得ないでしょう。そのことを理解したならば、この辺りはいい加減に書いておく。参考答案では、主に①の位置付けとしつつ、項目によって反論を書いたり書かなかったりしています。一番良くないのは、反論をどのような位置付けにするべきかについて現場で悩み続け、時間をロスしてしまうことです。
対照的に、特に意識して書くべきなのは、「参考とすべき判例」です。これは、今年特有の傾向ではありません。毎年、「参考とすべき判例」は、書くべきだったのです。ところが、例年、判例を無視した答案が圧倒的多数でした。一度も判例を引用しない答案も、珍しくなかったのです。判例の見解で書く場合も、判例を明示的に引用しないので、受験生がその見解を判例であると理解しているかがわからない。その背景には、「判例は明示的に引用しないで下さい。あたかも自分がその場で考えたかのように書いて下さい。」という一部予備校等の誤った指導があるのではないかと思います。このような状況に業を煮やした考査委員が、設問で明示的に要求することにしたのでしょう。それでも、判例を無視して書く答案、判例の見解らしきものを書いているが明示的に判例を引用しない答案が、今年も相当数出るでしょう。判例を明示する書き方に慣れていないからです。当サイトでは従来から、判例を明示して答案を書くべきだ、と繰り返し説明してきました(「司法試験平成27年採点実感等に関する意見の読み方(憲法)」)。参考答案も、その方針で書かれています。判例を明示した書き方の具体的なイメージが掴めない、という人は、参考にしてみて下さい。
2.憲法で最初に差が付くのは、現場で規制の構造を正しく把握できたか否かです。最初に規制の構造の把握を誤ると、延々と余事記載に近い論述を展開してしまうことになりかねません。本問で、問題文末尾に掲載された本条例案の条文をみれば、1条は目的規定、2条及び7条は定義規定、9条、15条及び16条は8条の規制の実効性を確保するための行政処分及び罰則を定めるものですから、規制の本体は8条だということがわかる。まずは、これを正確に読み取ることが必要です。
(1)では、8条は誰の権利を制約しているのか。この点については、前にも触れたとおり、検討すべき対象が問題文に明示されています。
(問題文より引用。太字強調は筆者。)
甲:規制の対象となる図書類の範囲や,規制の手段,内容について,議論があり得ると思います。図書類を購入する側と販売等をする店舗の双方の立場でそれぞれの権利を検討しておく必要がありそうですね。図書類を購入する側としては,規制図書類の購入等ができない青少年と18歳以上の人を想定しておく必要があります。また,販売等をする店舗としては,条例の規制による影響が想定される3つのタイプの店舗,すなわち,第一に,これまで日用品と並んで規制図書類を一部販売してきたスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの店舗,第二に,学校周辺の規制区域となる場所で規制図書類を扱ってきた店舗,第三に,規制図書類とそれ以外の図書類を扱っている書店やレンタルビデオ店を考えておく必要があるでしょう。
(引用終わり)
これを把握した上で同条各項を見ていくと、以下のような対応関係があることがわかります。
購入する側 | 販売等をする店舗 | |
1項 | 18歳以上の人 | スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの店舗 |
2項 | 18歳以上の人 | 学校周辺の規制区域となる場所で規制図書類を扱ってきた店舗 |
3項 | 青少年 | 書店やレンタルビデオ店 |
4項 | --- | 書店やレンタルビデオ店 |
ア.購入する側については、3項は専ら青少年を対象としていることが明らかです。また、4項については、隔離されるというだけで、購入等(購入し、又は貸与を受けること。以下同じ。)ができなくなるわけではありませんから、購入する側に対する制約はないと考えてよいでしょう。厳密には、隔離されたコーナーには心理的に入りにくいという抵抗感が生じるということはあるでしょうが、そんなことをわざわざ問題にしているようでは、時間内に答案を書き切れるようにはなりません。1項及び2項については、青少年も文言上は対象となり得るわけですが、青少年は3項で一律に購入等ができなくなっていますから、1項及び2項によって新たに購入等が制限されるわけではありません。ですから、1項及び2項は、専ら18歳以上の人に対する規制と捉えるのが正確です(2項が学校周辺を規制区域としているので、青少年との関係を意識した規制ではないかという点については後述。)。厳密には、3項の規制だけでは18歳以上の人に対する販売等(販売又は貸与。以下同じ。)が禁止されていないので、規制図書類の陳列は予定されているが、1項及び2項が適用されると全面的に規制図書類が販売等できなくなるので、陳列もされないことが予定され、陳列されている様子を青少年が見ることができなくなる、ということはいえそうですが、このことを別途青少年の権利の制約として構成し、論じる余裕は、本問ではないでしょう(※1)。
※1 後記※4も参照。
青少年及び18歳以上の人の制約される権利は何か、ということですが、これは誰もが知る権利(閲読の自由)と考えたでしょう(※2)。幸福追求権と考えた人は、幸福追求権が補充的な性格の権利であることを理解していない、と思われても仕方がありませんから、評価を下げるでしょう。規制図書類を購入等することは、その内容に含まれる情報に接し、これを摂取する行為ということになりますから、知る権利の保護範囲に含まれることは明らか。問題は、販売等の禁止が、購入側の知る権利を直接的に制約するものか、という点です。厳密に考えると、本条例案は購入する側を名宛人としていませんし、直接には購入等を禁止していないのです。仮に、店舗における販売等が禁止される反射的効果として、購入等ができなくなるだけだと考えるなら、これは間接的な制約にすぎないともいえます。しかし、実戦的には、こんなことを考えているようでは、「センスがない。」ということになる。参考答案でも、簡単に知る権利の制約を認めています。瞬時に思いついたのなら、「販売等と購入等は表裏の関係にあり、一方の禁止は必然的に他方の禁止を意味するから」という程度の簡潔な理由付け(※3)を付してもよいでしょうが、瞬時に思いつかないのなら、それ以上考えるべきではないところです。
※2 「知る権利」という用語は、実は判例はあまり使っていません。判例が「知る権利」という用語を用いるのは、報道の自由の権利性を肯定する場合の理由付けとして援用する場合(博多駅事件判例等参照)で、それ以外の場合は、「知る自由」(札幌税関事件判例参照)又は「情報等に接し、これを摂取する自由」(よど号事件判例、レペタ事件判例参照)などと表記します。ただ、講学上はこれらを区別することなく、「知る権利」と表記するのが通例ですから、ここでは、「情報等に接し、これを摂取する自由」のことを「知る権利」と表記することとします。参考答案も、これに従っています。
※3 表裏の関係にあるとはいっても、やはり法的には規制の名宛人は店舗事業者なので、理論的な理由付けといえるかは、なお疑問が残ります。個人的には、購入する側は、店舗に対して特定の商品を販売等せよと請求する権利を有しない以上、知る権利の直接的な制約があるということはできないのではないかと思っています。このことは、店舗が単に売れないからという理由で自主的に規制図書類の販売等を取りやめた場合であっても、これが私人間において顧客に対する権利侵害となる余地が全くないことからも、わかることではないかと思います。今まで規制図書類を購入できたことは、たまたま店舗がそれを販売等していたという事実上の原因によるものであって、当然に店舗において規制図書類を購入等することができる権利が、知る権利によって保障されているというわけではないのです。したがって、購入する側に対しては、規制図書類の入手ができないという事実上の影響を受ける点において、間接的な制約があるにとどまる。このように考えれば、参考答案とは異なり、本条例案8条1項及び2項は、18歳以上の人との関係においても合憲であるという結論になるでしょう。同各項は、販売等する店舗に対する合憲的な制約を規定したものであり、18歳以上の人に対する影響は店舗に対する規制をするために不可避的に生じるものであって、18歳以上の人は、なお同各項の店舗以外の店舗において規制図書類を入手できることからすれば、間接的な制約としては許容される限度にとどまっているといい得るからです。個人的には、これが妥当な理解だと思います。とはいえ、このような構成は、あまり司法試験向きではないでしょう。
イ.販売等をする店舗については、1項及び2項との対応は明確です(上記表参照)。3項は、文言上はあらゆる店舗が対象となっていますが、1項及び2項の適用がある店舗については、そもそも規制図書類の販売等が全面的に禁止されているわけですから、3項の適用の余地はありません。したがって、同項は専ら1項及び2項の適用される店舗以外の店舗に対する規制ということになります。問題文で明示された法益主体の中では、最後に列挙された書店やレンタルビデオ店が、これに当たります。4項も同様で、1項及び2項の適用される店舗については、そもそも規制図書類を販売等できないわけですから、隔離して陳列するという場面が生じません。ですから、同項も、専ら1項及び2項の適用される店舗以外の店舗、すなわち、書店やレンタルビデオ店に対する規制です。
これらの店舗の制約される権利は何か。実戦的には、以下のように考えるのが、「正解」です。
「こんなんどう見ても営業の自由やろ。表現の自由で考えたら、買う側も売る側も21条になっておかしいやん。大体、表現の自由を問うつもりなら、規制図書類を作成した出版社を法益主体に挙げるはずやろ。営業の自由で決め打ちや。」
憲法で上位を取る受験生の多くは、上記のように考えて、営業の自由で書く。これが、いわゆる「センス」というものです。理論的にはどうかというと、以下のように考えるのが、「正解」でしょう。
「狭義の表現(「言論、出版その他一切の表現」)とは、自らの思想等を外部に表明することをいう。小売店が規制図書類を販売することは、自らの思想等を外部に表明することとはいえないから、狭義の表現に当たらず、表現の自由の保護範囲に含まれない。したがって、本問は、いわゆる基本権の競合の問題において、「外見的には競合が生じているようにみえるが、厳密には一方の保護範囲に含まれないために、専ら他方の基本権を問題にすれば足りる場合」である。よって、本問では専ら営業の自由の問題と捉えるべきである。」
これを現場で書ける人は、ほとんどいないでしょう。参考答案も、端的に営業の自由の問題としています。ところで、営業の自由とは、いかなる自由を指すのでしょうか。判例をみると、営業の自由は広い意味での経済活動の自由の1つとして、職業遂行の自由とは区別されて位置付けられているようにもみえます。
(小売市場事件判例より引用。太字強調は筆者。)
憲法二二条一項は、国民の基本的人権の一つとして、職業選択の自由を保障しており、そこで職業選択の自由を保障するというなかには、広く一般に、いわゆる営業の自由を保障する趣旨を包含しているものと解すべきであり、ひいては、憲法が、個人の自由な経済活動を基調とする経済体制を一応予定しているものということができる。しかし、憲法は、個人の経済活動につき、その絶対かつ無制限の自由を保障する趣旨ではなく、各人は、「公共の福祉に反しない限り」において、その自由を享有することができるにとどまり、公共の福祉の要請に基づき、その自由に制限が加えられることのあることは、右条項自体の明示するところである。
おもうに、右条項に基づく個人の経済活動に対する法的規制は、個人の自由な経済活動からもたらされる諸々の弊害が社会公共の安全と秩序の維持の見地から看過することができないような場合に、消極的に、かような弊害を除去ないし緩和するために必要かつ合理的な規制である限りにおいて許されるべきことはいうまでもない。のみならず、憲法の他の条項をあわせ考察すると、憲法は、全体として、福祉国家的理想のもとに、社会経済の均衡のとれた調和的発展を企図しており、その見地から、すべての国民にいわゆる生存権を保障し、その一環として、国民の勤労権を保障する等、経済的劣位に立つ者に対する適切な保護政策を要請していることは明らかである。このような点を総合的に考察すると、憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができ、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なつて、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定し、かつ、許容するところと解するのが相当であり、国は、積極的に、国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、もつて社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るために、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることも、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、許されるべきであつて、決して、憲法の禁ずるところではないと解すべきである。もつとも、個人の経済活動に対する法的規制は、決して無制限に許されるべきものではなく、その規制の対象、手段、態様等においても、自ら一定の限界が存するものと解するのが相当である。
(引用終わり)
(薬事法事件判例より引用。太字強調は筆者。)
憲法二二条一項は、何人も、公共の福祉に反しないかぎり、職業選択の自由を有すると規定している。職業は、人が自己の生計を維持するためにする継続的活動であるとともに、分業社会においては、これを通じて社会の存続と発展に寄与する社会的機能分担の活動たる性質を有し、各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである。右規定が職業選択の自由を基本的人権の一つとして保障したゆえんも、現代社会における職業のもつ右のような性格と意義にあるものということができる。そして、このような職業の性格と意義に照らすときは、職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止において自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体、すなわちその職業活動の内容、態様においても、原則として自由であることが要請されるのであり、したがつて、右規定は、狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動の自由の保障をも包含しているものと解すべきである。
(引用終わり)
しかしながら、講学上は、薬事法事件判例のいう職業遂行の自由をもって「営業の自由」であるとするのが一般です。ですので、ここでは、この用例に従っておきましょう。参考答案も、そのような理解に立って書いています。なお、薬事法事件判例は、「職業の開始、継続、廃止」と、「職業の遂行」を質的に異なるものと位置付けていることには、注意を要します。「職業の開始、継続、廃止」の自由とは、職業そのものの選択の自由を指し、いつ始めるか、いつやめるかを自由に決定できることを意味します。開始及び廃止が自由であれば、自由に決定された開始と廃止の間の期間は自動的に継続することになるのだから、ここでいう「職業の継続」というのは、実はあまり意味のある要素ではありません。これに対し、「職業の遂行」の自由というのは職業活動の内容、態様における自由を意味しますから、職業自体を続けるかどうかという意味ではありません。このことは、「職業そのものに対する規制」と、「職業の内容、態様に対する規制」の区別と対応することになります。時折、この「職業の継続」と「職業の遂行」を混同する説明をするものがあるようですので、注意をする必要があるのです。
本条例案の規制は、職業そのものの開始、継続、廃止の自由が制限されているのではなく、規制図書類の販売等という内容、態様の制限にとどまるわけですから、まさに職業遂行の自由=営業の自由の制約が問題になる場合だ、ということになります。
以上の検討から、本条例案のどの条文が、誰のどの権利との関係で問題になるのかが、明らかになりました。問題文が、「本条例案のどの部分が,いかなる憲法上の権利との関係で問題になり得るのかを明確にした上で」としているのは、このような意味です。答案上、この点が不明確になっていると、評価を落とすでしょう。
(2)もう1つ、答案上明確にしておく必要があるのは、規制目的との対応です。本問では、規制目的として2つのものが示されています。
(問題文より引用。太字強調は筆者。)
甲:すると,青少年の健全な育成を図ることだけが目的となるわけではないのですね。
X:そうです。青少年の健全な育成とともに,羞恥心や不快感を覚えるような卑わいな書籍等が,それらをおよそ買うつもりのない人たちの目に,むやみに触れることがないようにすることもねらいです。
(中略)
(目的)
第1条 この条例は,性風俗に係る善良な市民の価値観を尊重するとともに青少年の健全な育成のために必要な環境の整備を図り,もって善良かつ健全な市民生活を守り,A市の健全で文化的な環境を保持することを目的とする。
(引用終わり)
この2つの規制目的は、8条各項の規制との関係で、どのような対応関係にあるのか、前記の法益主体、被侵害法益との対応を踏まえて考えると、以下のようになるでしょう。
規制目的 | |
1項 | 買うつもりのない人たちの目に むやみに触れることがないようにする |
2項 | 買うつもりのない人たちの目に むやみに触れることがないようにする |
3項 | 青少年の健全な育成 |
4項 | 買うつもりのない人たちの目に むやみに触れることがないようにする |
1項、3項及び4項については、特に悩むこともないでしょう。ただ、2項については、学校周辺を規制区域としているので、これは青少年の健全な育成が目的なのではないか。ここは、1つの悩みどころです。ここで思い出す必要があるのは、青少年による規制図書類の購入等は、3項で一律に規制されている、ということです。つまり、3項があることによって、青少年は規制区域内の店舗かどうかと関係なく、規制図書類を購入等することはできないのです。ですから、2項によって規制区域における販売等が禁止されても、青少年が新たに規制図書類を購入等できなくなるわけではない。2項によって新たに規制図書類を購入等できなくなるのは、専ら18歳以上の人なのです。こう考えると、2項は学校周辺を規制区域にしているけれども、青少年の健全な育成を規制目的と考えることは難しいということになる。厳密には、3項の適用のある店舗では、18歳以上の人向けに規制図書類を販売等することができるので、その陳列が予定されることになるけれども、2項の規制区域内の店舗については、規制図書類の販売等が全面的に禁止されるので、陳列は予定されない。その結果、学校に通う青少年の目に触れないことになるので、その意味で青少年の健全な育成に資するのだ、と考える余地もあるでしょう。しかしながら、それは、「青少年の健全な育成に悪影響を及ぼすのは、規制図書類の中身ではなく、陳列それ自体である。」と考えて初めて成り立ち得る立論です。本条例における規制図書類は、性的な画像等が表紙など外から見える場所に掲載されているものに限られているわけではありません。
(問題文より引用。太字強調は筆者。)
(規制図書類)
第7条 次の各号に掲げるものを撮影した画像又は描写した図画(殊更に性的感情を刺激する画像又は図画に限る。)を含む図書類を規制図書類とする。
(1) 性交又は性交類似行為
(2) 衣服の全部又は一部を着けない者の卑わいな姿態
(引用終わり)
仮に、表紙に性的な画像等を含んでいるものに限られているのであれば、確かに陳列されているだけで青少年の健全な育成に悪影響を及ぼすかもしれません。しかし、中を見てみないとわからないのであれば、陳列だけで青少年の健全な育成に悪影響を及ぼすというのは、無理がある。もっとも、さらに厳密に考えると、立読みの余地があることに気付きます。つまり、立読みができるような陳列のされ方であれば、青少年は購入等しなくても中身を見ることができるので、青少年の健全な育成に悪影響を及ぼす余地がある。だから、学校帰りに規制図書類の中身を立読みされないように、陳列もできないようにすることに、2項の特別な意義がある。ここまで考えれば、なるほど2項も青少年の健全な育成を目的とするといえなくもない(※4)。しかし、このようなことまで考えるのは、本試験では大体の場合、深読みであることが多いです。考査委員が立読みを考慮していなければ、単なる余事記載になってしまいますし、これらのことを時間内にまとめて答案に書くのも難しい。そして、そもそも、同項は販売等を規制するだけで、単なる陳列は何ら規制していないわけですから、仮に、「売り物ではないけれど、立読みするだけならどうぞ。」として陳列だけを行う店舗が現れたとしても、これは規制対象とならないわけで(現に、飲食店や理髪店などに、閲覧だけのために週刊誌などを陳列する例がみられます。これを「貸与」に当たるとして規制対象にすることができるでしょうか。)、上記の論理も実は必ずしも説得的ではないのです。そういうわけで、実戦的には、2項は青少年の健全な育成を目的としているわけではない、と整理してしまう方が良いのだろうと思います。参考答案は、そのような整理に従って書いています。そうだとすると、何のために学校周辺を規制区域にしたのか、ということが問われるわけですが、本条例上、青少年はおよそ規制図書類の買い手としては想定されていないわけですから、「それらをおよそ買うつもりのない人たち」ということになります。そこで、「それらをおよそ買うつもりのない人たち」が通う学校周辺の販売等を一律に禁止することで、「それらをおよそ買うつもりのない人たちの目にむやみに触れることがないようにする」という目的を達しようとしているのだ、と考えることができるでしょう。ここは、考え出すと時間をロスしがちなので、素早く自分の立場を決めることがポイントになります。
※4 このような考え方からすれば、2項は青少年の立読みを制限していることから、知る権利の制約があると構成できることになります。
3.さて、ここまでで、規制の構造がかなりはっきりしてきました。現在の憲法は、ほぼここまでの整理が的確かどうかで勝負が決まります。実戦では、この辺りの整理ができないまま漫然と書いている答案がかなり多いので、きちんと整理してあれば、後は、判例の規範と事実を書き写すだけで、かなりの上位になってしまうのです。
(1)青少年の知る権利の制約については、岐阜県青少年保護育成条例事件判例がありますが、参照すべきは、同判例に付された伊藤正己補足意見です。
(岐阜県青少年保護育成条例事件判例における伊藤正己補足意見より引用。太字強調は筆者。)
青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによって精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのであるが、他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている。青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがつて青少年のもつ知る自由は一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。
(中略)
青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神的成熟を害するおそれのあることがあげられるが、そのような事実について科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえないかもしれない。しかし、青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解してよいと思われる。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要性が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。
西ドイツ基本法五条二項の規定は、表現の自由、知る権利について、少年保護のための法律によって制限されることを明文で認めており、いわゆる「法律の留保」を承認していると解される。日本国憲法のもとでは、これと同日に論ずることはできないから、法令をもってする青少年保護のための表現の自由、知る自由の制約を直ちに合憲的な規制として承認することはできないが、現代における社会の共通の認識からみて、青少年保護のために有害図書に接する青少年の自由を制限することは、右にみた相当の蓋然性の要件をみたすものといってよいであろう。問題は、本件条例の採用する手段方法が憲法上許される必要な限度をこえるかどうかである。
(引用終わり)
上記を端的に規範化すれば、以下のようになるでしょう。
(参考答案より引用)
未成年者は、精神的未熟さに由来する害悪からの保護に必要な範囲で、知る権利に一定の制約を受ける(岐阜県青少年保護育成条例事件判例における伊藤正己補足意見参照)。
(中略)
未成年者の知る権利の制約に関する合憲性は、未成年者の精神的未熟さに由来する害悪が生じる相当の蓋然性が認められるか、規制手段が必要な限度を超えていないかによって判断すべきであるが、相当の蓋然性が認められるためには、厳密な科学的証明があることは必要でなく、未成年者の健全な育成に有害であることが社会共通の認識となっていれば足りる(前記補足意見参照)。
(引用終わり)
上位を狙うのでなければ、理由付けは書かない。多くの人が、無理をして理由付けを書こうとするので、時間内にまとめ切れなくなるのです。そのように理由付けを書く人は、以下のような問題文の事実の摘示を省略します。
(参考答案より引用)
本件では、市民から青少年の健全な育成に悪影響を及ぼす、安心して子供と買い物に行けないという意見が寄せられている。子供がいる世帯が多数居住する地区の自治会からも性的な画像を掲載した出版物等の販売や貸与について規制を求める要望が出ている。一部のコンビニエンスストアでは、性的な画像を掲載した雑誌類の取扱いをやめる動きがある。これらの事実から、規制図書類が未成年者の健全な育成に有害であることが社会共通の認識となっており、未成年者の精神的未熟さに由来する害悪が生じる相当の蓋然性があると認められる。
そして、本条例8条3項は、一律に青少年に対する規制図書類の販売等を禁止しているから、青少年は規制図書類を全く購入等できなくなるが、青少年は成長途上であり、上記事実から社会的に許容されるといえるから、規制手段が必要な限度を超えているとはいえない。
(引用終わり)
「事実の書写しなんて本質ではない。だから、自分の言葉で本質を論じるんだ。」という意識があると、抽象的な理由付けを大展開し、事実はほとんど摘示しない答案になります。しかし、配点は規範と事実にあるので、予想外に低い点数になる。このことは、憲法でも同じです。現在の憲法は、刑法各論と同じようなイメージで考えた方が、点が取れるのです。
なお、上記伊藤正己補足意見では、規制手段が必要な限度を超えているか否かについては、専ら成人との関係を考慮しています。
(岐阜県青少年保護育成条例事件判例における伊藤正己補足意見より引用。太字強調は筆者。)
問題は、本件条例の採用する手段方法が憲法上許される必要な限度をこえるかどうかである。これについて以下の点が問題となろう。
すでにみたように本件条例による有害図書の規制は、表現の自由、知る自由を制限するものであるが、これが基本的に是認されるのは青少年の保護のための規制であるという特殊性に基づくといえる。もし成人を含めて知る自由を本件条例のような態様方法によって制限するとすれば、憲法上の厳格な判断基準が適用される結果違憲とされることを免れないと思われる。そして、たとえ青少年の知る自由を制限することを目的とするものであっても、その規制の実質的な効果が成人の知る自由を全く封殺するような場合には、同じような判断を受けざるをえないであろう。
しかしながら、青少年の知る自由を制限する規制がかりに成人の知る自由を制約することがあつても、青少年の保護の目的からみて必要とされる規制に伴って当然に附随的に生ずる効果であつて、成人にはこの規制を受ける図書等を入手する方法が認められている場合には、その限度での成人の知る自由の制約もやむをえないものと考えられる。本件条例は書店における販売のみでなく自動販売機(以下「自販機」という。)による販売を規制し、本件条例六条二項によって有害図書として指定されたものは自販機への収納を禁止されるのであるから、成人が自販機によってこれらの図書を簡易に入手する便宜を奪われることになり、成人の知る自由に対するかなりきびしい制限であるということができるが、他の方法でこれらの図書に接する機会が全く閉ざされているとの立証はないし、成人に対しては、特定の態様による販売が事実上抑止されるにとどまるものであるから、有害図書とされるものが一般に価値がないか又は極めて乏しいことをあわせ考えるとき、成人の知る自由の制約とされることを理由に本件条例を違憲とするのは相当ではない。
(引用終わり)
本問では、青少年の知る権利の制約を本条例8条3項によるものと捉える限り、同項は18歳以上の人の知る権利は何ら制約していないことになるので、同項の合憲性を検討する場面でこの点を論述するのは、適切ではない。これを論じるのは、同条1項及び2項による18歳以上の人の知る権利に対する制約を論じる場面です。この場面では、上記補足意見から、以下のような規範を導出することができるでしょう。
(参考答案より引用)
未成年者の知る権利に対する制約に付随して成人の知る権利の制約が生じる場合において、それが合理的制限として許されるかは、未成年者の保護のために必要とされる規制に伴って当然に付随的に生ずる効果であるか、成人には規制対象となる情報等を入手する方法が他に認められているか、規制対象となる情報等が一般に価値がないか又は極めて乏しいものといえるかという観点から判断すべきである(前記補足意見参照)。
(引用終わり)
おそらく、「本質」と称して抽象論を大展開するあまり、上記の規範すら明示できない答案が続出するでしょう。ですから、上記の規範を書いて事実を書き写して当てはめれば、優に合格答案になるだろうと思います。参考答案では、これに加えて、岐阜県青少年保護育成条例事件判例とは異なる点として、対面販売である旨の指摘を入れています。これは、「司法試験平成27年採点実感等に関する意見の読み方(憲法)」で説明した判例の射程論に近い論述です。その意味では、本問の参考答案は、一応の水準レベルではなく、良好の上位か優秀に近い水準になってしまっているでしょう。
(参考答案より引用)
確かに、成人は、本条例8条1項、2項の規制対象となる店舗以外の店舗から規制図書類を購入等することができ、規制対象となる情報等を入手する方法が他に認められている。しかし、売手と対面しない自販機(岐阜県青少年保護育成条例事件判例参照)と異なり、店舗における販売等においては、購入者の年齢を確認して販売等ができるから、青少年の健全な育成の目的は、成人に対して販売等を禁止する理由とはならない。したがって、同条1項、2項による成人に対する規制が、青少年の保護のために必要とされる規制に伴って当然に付随的に生ずる効果ということはできない。また、本条例7条の画像等を一部に含む図書類(同条例2条2号)が規制図書類となるところ、最近では一般の週刊誌として販売される雑誌を含む様々な出版物等に性的な画像が掲載されており、これらの出版物がすべて規制図書類となることを考慮すると、規制対象となる情報等が一般に価値がないか又は極めて乏しいものということはできない。
(引用終わり)
18歳以上の人に対する1項及び2項の制約については、前に整理したとおり、買うつもりのない人たちの目にむやみに触れることがないようにするという目的によって正当化できるかの方が、むしろ重要です。ここで重要なことは、「買うつもりのない人たちの目にむやみに触れることがないようにする」ことが、知る権利に優越する公共の利益といえるかどうかです。違憲審査基準論風に表現すれば、上記目的が、「知る権利を制約するに足りるほど重要なものか」ということであり、三段階審査論風に表現すれば、「知る権利を犠牲にすることが法益の均衡(相当性)を欠いていないか」ということになります。
(よど号事件判例より引用。太字強調は筆者。)
およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである。それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法一九条の規定や、表現の自由を保障した憲法二一条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法一三条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる。しかしながら、このような閲読の自由は、生活のさまざまな場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであつて、もとより上告人らの主張するようにその制限が絶対に許されないものとすることはできず、それぞれの場面において、これに優越する公共の利益のための必要から、一定の合理的制限を受けることがあることもやむをえないものといわなければならない。
(引用終わり)
(参考答案より引用)
知る権利は、生活の様々な場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであるから、これに優越する公共の利益のための必要から、一定の合理的制限を受ける(よど号事件判例参照)。
(引用終わり)
買うつもりのない人たちの目にむやみに触れることがないようにするという程度では、知る権利に優越するとはいえないだろう。直感的にそう感じるでしょうが、普段あまり考えたことがないでしょう。現在の憲法は、このようなところで、「自分の頭で考える。」のではなく、「関連判例を想起する。」ことによって対処する。一種の連想ゲームです。まず、問題文の「見たくもないものが目に入って不快である」、「羞恥心や不快感を覚えるような卑わいな書籍等」という記載から連想したいのが、自衛官合祀事件判例です。
(自衛官合祀事件判例より引用。太字強調は筆者。)
人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によつて害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえつて相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されているからである。原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。
(引用終わり)
これを一般化して論証化すれば、以下のようになるでしょう。
(参考答案より引用)
憲法上の権利の保障は、他者の権利行使に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の権利を侵害するものでない限り寛容であることを要請しているから、他者の権利行使に対する不快感を被侵害利益とする損害賠償請求や差止請求は認められない(他者の宗教的行為に関する自衛官合祀事件判例参照)
(引用終わり)
これは、知る権利の行使に対し、その行使が不快だからやめて欲しいという利益は優越しない、ということを示唆しています。自衛官合祀事件判例は宗教的行為に関する事案についての判示なので、参考答案のような一般化は強引だ、と思うかもしれません。確かに、判例を一般化するのであれば、積極的な理由があった方が本来は望ましいでしょう。しかし、現在の司法試験では、そもそも判例を参照しようとすらしない人が圧倒的です。そもそも判例を参照しようとすらしない人と、強引だけど判例を参照しようとしている人とで、どちらがより高評価になるでしょうか。これは後者です。仮に、今後、ほとんどの人が判例を参照しようとしてくれば、その妥当性や、参照することが可能である積極的理由の有無などが評価を左右するようになるかもしれません。しかし、多くの人が判例を引こうとすらしない現状においては、強引でもいいから思い付いた判例を参照しようとする方が、高評価になるのです。
次に、「市民が性的なものに触れることなく安心して生活できる環境の保持」という問題文から想起したい判例が、国立マンション事件判例です。
(国立マンション事件判例より引用。太字強調は筆者。)
景観利益は,これが侵害された場合に被侵害者の生活妨害や健康被害を生じさせるという性質のものではないこと,景観利益の保護は,一方において当該地域における土地・建物の財産権に制限を加えることとなり,その範囲・内容等をめぐって周辺の住民相互間や財産権者との間で意見の対立が生ずることも予想されるのであるから,景観利益の保護とこれに伴う財産権等の規制は,第一次的には,民主的手続により定められた行政法規や当該地域の条例等によってなされることが予定されているものということができることなどからすれば,ある行為が景観利益に対する違法な侵害に当たるといえるためには,少なくとも,その侵害行為が刑罰法規や行政法規の規制に違反するものであったり,公序良俗違反や権利の濫用に該当するものであるなど,侵害行為の態様や程度の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くことが求められると解するのが相当である。
(引用終わり)
上記判例は、主に環境権に関する出題がされた場合に使います。その場合は、景観利益に限らず、環境に関する利益一般に関するものとして論証化する必要がある。上記判例は景観利益侵害に関する私法上の不法行為の要件を示したものなので、主として法令違反又はこれに準じるものであることを要求していますが、憲法問題となる場合には、主として新たに制定された法令による利益侵害が問題となるでしょうから、法令違反等を基準にするのは難しいのです。むしろ、その前段階で判示されている「生活妨害や健康被害」を生じさせるようなものか、ということが、より重要な要素となります。これを環境に関する利益一般についてのものとして論証化すると、以下のようになるでしょう。
(参考答案より引用)
個々人の環境に関する利益の侵害があるというためには、生活妨害や健康被害が生じるおそれがあるなど、態様・程度において受忍限度を超えるものであることを要する(景観利益に関する国立マンション事件判例参照)
(引用終わり)
これは、性的なものに触れることなく安心して生活できる環境を保持する利益は、単に不快だというだけで、生活妨害や健康被害が生じるおそれがあるなどの程度に達していないので、知る権利に優越するだけの要保護性がないということを示唆します。上記参考答案のように、本来は環境権が問われた場合に用意していた論証であっても、それをそのまま書き写して使うことは可能なのです。景観ないし環境の保持のための規制、というところから、美観風致、という連想ができれば、大阪市屋外広告物条例事件判例を想起することも可能でしょう。この判例は合憲方向なので、参考答案では違憲の結論を採るために、本問は射程外であるという処理をしておきました。判例の射程外にして流すテクニックは、最近の憲法では重要なテクニックの1つです。
(参考答案より引用)
大阪市屋外広告物条例事件判例は、美観風致を目的とする表現の自由の規制を合憲としている。
しかし、個々人の主観的利益の保護のために店舗内で販売等する図書類を規制する場合について、街の美観のために屋外の広告物等を規制する場合について判示した上記判例の趣旨は及ばない。
(引用終わり)
それから、「見たくもないものが目に入って」という問題文の記載から、「囚われの聴衆」の議論に似てるな、と感じたなら、列車内商業宣伝放送事件判例も想起できるでしょう。この判例は、多数意見はほとんど何も言っていませんが、伊藤正己裁判官の詳細な補足意見があります。論証化して用意しておくべきは、以下の部分です。
(列車内商業宣伝放送事件判例における伊藤正己補足意見より引用。太字強調は筆者。)
私は、個人が他者から自己の欲しない刺戟によつて心の静穏を乱されない利益を有しており、これを広い意味でのプライバシーと呼ぶことができると考えており、聞きたくない音を聞かされることは、このような心の静穏を侵害することになると考えている。このような利益が法的に保護を受ける利益としてどの程度に強固なものかについては問題があるとしても、現代社会においてそれを法的な利益とみることを妨げないのである。
(中略)
聞きたくない音によつて心の静穏を害されないことは、プライバシーの利益と考えられるが、本来、プライバシーは公共の場所においてはその保護が希薄とならざるをえず、受忍すべき範囲が広くなることを免れない。個人の居宅における音による侵害に対しては、プライバシーの保護の程度が高いとしても、人が公共の場所にいる限りは、プライバシーの利益は、全く失われるわけではないがきわめて制約されるものになる。したがつて、一般の公共の場所にあつては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生ずるものとは考えられない。
(引用終わり)
上記の各太字強調部分を繋ぎ合わせれば、以下のような論証化が可能でしょう。
(参考答案より引用)
他者から自己の欲しない刺激によって心の静穏を乱されない利益は広い意味のプライバシーといえるとしても、公共の場所においては極めて制約されるものとなる(列車内商業宣伝放送事件判例における伊藤正己補足意見参照)
(引用終わり)
これは、性的なものに触れたくないという利益を広い意味のプライバシーと考えたとしても、店舗という公共の場所においては極めて制約されるものとなるので、知る権利には優越しないということを示唆しています。
本来であれば、これらの判例の趣旨が、どのように本問の事案に当てはまるのか、具体的に説明したいところです。しかし、本問では、そのような時間も紙幅もないことは明らかです。参考答案では、これらの判例を書き写すだけで、そのまま結論になだれ込む書き方をしています。憲法では、これも1つの重要なテクニックです。
(参考答案より引用)
確かに、特に女性を中心として、見たくもないものが目に入って不快であるとか、思わぬところで性的なものに触れないようにしてほしいという意見が最近多く寄せられるようになっており、これを受けて、本条例1条は、性風俗に係る善良な市民の価値観を尊重することを目的として掲げている。大阪市屋外広告物条例事件判例は、美観風致を目的とする表現の自由の規制を合憲としている。
しかし、個々人の主観的利益の保護のために店舗内で販売等する図書類を規制する場合について、街の美観のために屋外の広告物等を規制する場合について判示した上記判例の趣旨は及ばない。憲法上の権利の保障は、他者の権利行使に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の権利を侵害するものでない限り寛容であることを要請しているから、他者の権利行使に対する不快感を被侵害利益とする損害賠償請求や差止請求は認められない(他者の宗教的行為に関する自衛官合祀事件判例参照)こと、個々人の環境に関する利益の侵害があるというためには、生活妨害や健康被害が生じるおそれがあるなど、態様・程度において受忍限度を超えるものであることを要する(景観利益に関する国立マンション事件判例参照)こと、他者から自己の欲しない刺激によって心の静穏を乱されない利益は広い意味のプライバシーといえるとしても、公共の場所においては極めて制約されるものとなる(列車内商業宣伝放送事件判例における伊藤正己補足意見参照)ことを踏まえると、本件利益が、知る権利に優越する公共の利益であるとはいえない。
(引用終わり)
「なぜ判例が使えるのか、実質的理由を示さないとダメじゃないのか。それこそが本質なのではないか。」と疑問を持つ人もいるでしょう。そのような人は、「判例は思いついたけど、本問に妥当する理由がわからなかったので、書きませんでした。」と言う。しかし、それでは判例を全然知らなかったものとして評価されてしまいます。参考答案程度に引用しておけば、少なくとも判例を知っていること、判例をベースにして考えようとしていることはわかる。このような参考答案と、そもそも判例を全く引用しようともしない答案とを比べれば、差は歴然としています。法科大学院で、「本質を書きなさい。」と教わるので、本質が書けない場合は白紙もやむなし、という極端な発想になりがちなのですね。とりあえず関連判例を思いついたなら、それが合憲方向なのか、違憲方向なのかくらいはわかるでしょうから、「確かに」、「しかし」で並べて書いておけばいい。それすらできない人と、最低限その程度は守る人との間で、差が付くのです。とにかく、現在は、一度も判例を引用しない、しようともしていないような答案があまりに多すぎるのです。判例を引用しようという姿勢があるだけでも、アドバンテージになる。この点に関しては、予備校は全く対応できていないようなので、特に注意が必要です。
(2)販売等をする店舗の営業の自由の制約の合憲性については、8条3項と同条1項、2項及び4項とで区別することがポイントになります。
ア.前記2(2)のとおり、3項の規制目的は青少年の健全な育成にあり、これは営業の自由に優越する公共の利益といえますから、営業の自由に対して認められる内在的制約として、比較的容易に合憲性を肯定することができるでしょう。このようなところは、参考答案程度にあっさり書くべきです。
(参考答案より引用)
本条例8条3項の目的は、青少年の健全な育成にあり、営業の自由に優越する公共の利益といえるから、前記第1の2(2)で述べたことからすれば、同項は必要かつ合理的な制限として22条1項に違反しない。
(引用終わり)
イ.問題は、1項、2項及び4項で、前記2(2)のとおり、同各項の規制目的は、買うつもりのない人たちの目にむやみに触れることがないようにするというものでした。これは、上記(1)でみたとおり、他者の憲法上の権利の行使に優越するような公共の利益とは、いえないものでした。そうなると、営業の自由との関係でも、制約根拠とはなり得ないようにも思えます。しかし、ここで、営業の自由に対しては、積極的・政策的制約も許されることを思い出す必要があるのです。
(小売市場事件判例より引用。太字強調は筆者。)
個人の経済活動に対する法的規制は、個人の自由な経済活動からもたらされる諸々の弊害が社会公共の安全と秩序の維持の見地から看過することができないような場合に、消極的に、かような弊害を除去ないし緩和するために必要かつ合理的な規制である限りにおいて許されるべきことはいうまでもない。のみならず、憲法の他の条項をあわせ考察すると、憲法は、全体として、福祉国家的理想のもとに、社会経済の均衡のとれた調和的発展を企図しており、その見地から、すべての国民にいわゆる生存権を保障し、その一環として、国民の勤労権を保障する等、経済的劣位に立つ者に対する適切な保護政策を要請していることは明らかである。このような点を総合的に考察すると、憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができ、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なつて、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定し、かつ、許容するところと解するのが相当であり、国は、積極的に、国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、もつて社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るために、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることも、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、許されるべきであつて、決して、憲法の禁ずるところではないと解すべきである。
(引用終わり)
(薬事法事件判例より引用。太字強調は筆者。)
職業は、前述のように、本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であつて、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつよく、憲法二二条一項が「公共の福祉に反しない限り」という留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。このように、職業は、それ自身のうちになんらかの制約の必要性が内在する社会的活動であるが、その種類、性質、内容、社会的意義及び影響がきわめて多種多様であるため、その規制を要求する社会的理由ないし目的も、国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで千差万別で、その重要性も区々にわたるのである。
(引用終わり)
積極的・政策的制約というと、社会権を実現するためのもの、というようなイメージが強いかもしれませんが、都市計画による財産権の制約のように、社会権とは関係のないものもあるのです。また、積極的・政策的制約とはいえ、営業の自由に優越するとはいえない利益によって営業の自由の制約が正当化されることに違和感を持つ人もいるかも知れませんが、都市計画で住宅の立地が優先され、工場の立地が制限される場合に、一般的に住宅を建てる利益が工場を建てる利益に優越するわけではないことを想起すれば、理解できるでしょう。本問の場合でいえば、買うつもりのない人たちの目にむやみに触れることがないようにするという利益を特に重視する政策的判断に基づいて、積極的に保護していこうというのであれば、必要かつ合理的な範囲で営業の自由を制約し得るということになるわけです。すなわち、知る権利の制約原理とはなり得ないが、営業の自由の制約原理にはなり得るという違いがある。これが、本問において、購入する側と販売等をする店舗の双方の立場を問うた意味であろうと思います。学説の立場から規制目的の正当性ないし重要性を検討する場合にも、その判断に当たり積極的・政策的観点を加味することができることを明示すべきでしょう。
ウ.制約の許容限度については、小売市場事件判例と薬事法事件判例のどちらの規範が妥当するかということが、論点となります。原則は小売市場事件判例、例外が薬事法事件判例という関係にありますから、薬事法事件判例がどのような場合に妥当するのか、ということを示した上で、本問の事実を当てはめて結論を出すことになる。薬事法事件判例は、段階的に合憲性のハードルを高くしているので、そのことを答案に示せるとよいでしょう。
(薬事法事件判例より引用。太字強調は筆者。)
一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。
(中略)
許可条件に関する基準をみると、薬事法六条(この規定は薬局の開設に関するものであるが、同法二六条二項において本件で問題となる医薬品の一般販売業に準用されている。)は、一項一号において薬局の構造設備につき、一号の二において薬局において薬事業務に従事すべき薬剤師の数につき、二号において許可申請者の人的欠格事由につき、それぞれ許可の条件を定め、二項においては、設置場所の配置の適正の観点から許可をしないことができる場合を認め、四項においてその具体的内容の規定を都道府県の条例に譲つている。これらの許可条件に関する基準のうち、同条一項各号に定めるものは、いずれも不良医薬品の供給の防止の目的に直結する事項であり、比較的容易にその必要性と合理性を肯定しうるものである(前掲各最高裁大法廷判決参照)のに対し、二項に定めるものは、このような直接の関連性をもつておらず、本件において上告人が指摘し、その合憲性を争つているのも、専らこの点に関するものである。それ故、以下において適正配置上の観点から不許可の道を開くこととした趣旨、目的を明らかにし、このような許可条件の設定とその目的との関連性、及びこのような目的を達成する手段としての必要性と合理性を検討し、この点に関する立法府の判断がその合理的裁量の範囲を超えないかどうかを判断することとする。
(中略)
薬局の開設等について地域的制限が存在しない場合、薬局等が偏在し、これに伴い一部地域において業者間に過当競争が生じる可能性があることは、さきに述べたとおりであり、このような過当競争の結果として一部業者の経営が不安定となるおそれがあることも、容易に想定されるところである。被上告人は、このような経営上の不安定は、ひいては当該薬局等における設備、器具等の欠陥、医薬品の貯蔵その他の管理上の不備をもたらし、良質な医薬品の供給をさまたげる危険を生じさせると論じている。確かに、観念上はそのような可能性を否定することができない。しかし、果たして実際上どの程度にこのような危険があるかは、必ずしも明らかにされてはいないのである。被上告人の指摘する医薬品の乱売に際して不良医薬品の販売の事実が発生するおそれがあつたとの点も、それがどの程度のものであつたか明らかでないが、そこで挙げられている大都市の一部地域における医薬品の乱売のごときは、主としていわゆる現金問屋又はスーパーマーケツトによる低価格販売を契機として生じたものと認められることや、一般に医薬品の乱売については、むしろその製造段階における一部の過剰生産とこれに伴う激烈な販売合戦、流通過程における営業政策上の行態等が有力な要因として競合していることが十分に想定されることを考えると、不良医薬品の販売の現象を直ちに一部薬局等の経営不安定、特にその結果としての医薬品の貯蔵その他の管理上の不備等に直結させることは、決して合理的な判断とはいえない。殊に、常時行政上の監督と法規違反に対する制裁を背後に控えている一般の薬局等の経営者、特に薬剤師が経済上の理由のみからあえて法規違反の挙に出るようなことは、きわめて異例に属すると考えられる。このようにみてくると、競争の激化―経営の不安定―法規違反という因果関係に立つ不良医薬品の供給の危険が、薬局等の段階において、相当程度の規模で発生する可能性があるとすることは、単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは認めがたいといわなければならない。
(引用終わり)
(参考答案より引用)
職業の自由に対する制約であっても、①許可制のように狭義の職業選択の自由そのものに制約を課すものについては、重要な公共の利益のための規制であることを要し、これに加えて、②自由な職業活動から生じる弊害を防止する消極的な目的による場合のように立法府の政策的、技術的裁量の余地に乏しいものについては、より緩やかな制限である職業活動の内容・態様に対する規制によってはその目的を十分に達成することができないことを要し、さらに、③規制手段が目的と直結しておらず、直接の関連性が認められないときは、必要性、合理性に関する立法府の判断が単なる観念上の想定ではなく、確実な根拠に基づく合理的な判断といえることを要する(薬事法事件判例参照)。
(引用終わり)
なお、薬事法事件判例については、ア 職業遂行の自由を制約するにとどまる場合、イ 主観的条件(本人の努力によって充足し得る条件)によって職業選択の自由を制約する場合、ウ 客観的条件(本人の努力によって充足することができない条件)によって職業選択の自由を制約する場合を区別し、ア、イ、ウの順に基準の厳格度を高めるとともに、イの段階の規制をするためにはアの規制では目的を達成できないことを要し、ウの段階の規制をするためにはイの規制では目的を達成できないことを要するとする考え方を示したものだ、とする説明があります。この考え方は、ドイツ連邦憲法裁判所が採用したとされる考え方で、ア、イ、ウの順に規制の強度を区別し、各段階において次の段階に進むためには前の段階では目的を達成できないことを要求することから、「段階理論」などと呼ばれています。上記のうち、アに関しては、薬事法事件判例の「一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課する…」の判示に対応しており、次の段階に進むためには前の段階では目的を達成できないことを要求する点については、「許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要する」の判示に対応しています。また、同判例は、薬局の構造設備、薬剤師の数及び申請者の欠格事由については緩やかに合憲性を認め、距離制限については厳格に合憲性を審査しているので、これが上記イ、ウに対応すると考えることもできるでしょう。その限度で、類似性があることは確かです。しかし、薬事法事件判例が薬局の構造設備、薬剤師の数及び申請者の欠格事由については緩やかに合憲性を認め、距離制限については厳格に合憲性を審査したのは、前者が主観的条件で後者が客観的条件だからというのではなく、前者が「不良医薬品の供給の防止の目的に直結する事項」であるのに対し、後者は「このような直接の関連性をもつておらず」としていて、規制目的と直接の関連性があるか否かという観点から考えていることが明示されています。判例が明示的に主観的条件か客観的条件かという点に着目しているのは、平等原則の分野においてです。
(国籍法事件判例より引用。太字強調は筆者。)
日本国籍は,我が国の構成員としての資格であるとともに,我が国において基本的人権の保障,公的資格の付与,公的給付等を受ける上で意味を持つ重要な法的地位でもある。一方,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得するか否かということは,子にとっては自らの意思や努力によっては変えることのできない父母の身分行為に係る事柄である。したがって,このような事柄をもって日本国籍取得の要件に関して区別を生じさせることに合理的な理由があるか否かについては,慎重に検討することが必要である。
(引用終わり)
(西宮市営住宅条例事件判例より引用。太字強調は筆者。)
暴力団員は,前記のとおり,集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体の構成員と定義されているところ,このような暴力団員が市営住宅に入居し続ける場合には,当該市営住宅の他の入居者等の生活の平穏が害されるおそれを否定することはできない。他方において,暴力団員は,自らの意思により暴力団を脱退し,そうすることで暴力団員でなくなることが可能であり,また,暴力団員が市営住宅の明渡しをせざるを得ないとしても,それは,当該市営住宅には居住することができなくなるというにすぎず,当該市営住宅以外における居住についてまで制限を受けるわけではない。
以上の諸点を考慮すると,本件規定は暴力団員について合理的な理由のない差別をするものということはできない。したがって,本件規定は,憲法14条1項に違反しない。
(引用終わり)
したがって、判例がドイツの段階理論そのものを採用しているとまではいえないのではないかと思います。
さて、薬事法事件判例の趣旨は、本問に妥当するか。参考答案では、形式的に判断して、これを否定しています。
(参考答案より引用)
本条例8条は規制図書類の販売等という特定の職業活動の内容、態様について制限しているにすぎず、狭義の職業選択の自由そのものの制約とはいえない。したがって、上記薬事法事件判例の趣旨は、本件に妥当しない。
(引用終わり)
本条例案の規制は、店舗営業自体を禁止するのではなく、規制図書類の販売等を禁止するだけなので、形式的には職業の内容・態様の規制であって、職業そのものに対する規制とはいえないことが明らかです。参考答案は、そのことを素直に書いている。おそらく、この形式論を的確に答案に示している人すらあまり多くはないでしょうから、これで十分合格答案です。もっとも、出題趣旨としては、問題文の以下の記述に着目して、もう少し踏み込んだ検討をさせようとしているのでしょう。
(問題文より引用。太字強調は筆者。)
第8条第2項によって規制図書類の販売や貸与をする事業が禁止される規制区域が市全体の面積に占める割合は20パーセント程度で,市内の商業地域に限っても,規制区域が占める割合は30パーセント程度です。市内の規制区域にある店舗は約700店舗で,そのうち規制図書類の販売や貸与をする店舗は約150店舗あります。しかし,その約150店舗のうち,規制図書類の売上げが売上げ全体の20パーセントを超えるのは,僅か10店舗に過ぎません。
(引用終わり)
10店舗にすぎないとはいえ、規制図書類の売上げが売上げ全体の20%を超える店舗がある。「20パーセントを超える」としか書いていないので、30%かもしれないし、50%かもしれないし、90%かもしれないし、100%かもしれない。その点が明確にされていないのは、営業の継続に一定の支障が生じる目安が、20%だからなのでしょう。問題文に明示はありませんが、そのように読まないと話が先に進まないので、現場ではそのように考えるよりありません。ここは、少し不親切な問題文だな、という印象です。このようにして、規制図書類の売上げが売上げ全体の20%を超える10店舗については、本条例案8条2項の規制が営業継続の断念ないしは営業の廃止に繋がり得るものであると認定した上で、薬事法事件判例の趣旨が同項の合憲性判断に限っては妥当すると考える余地はあるでしょう。
(薬事法事件判例より引用。太字強調は筆者。)
薬局の開設等の許可における適正配置規制は、設置場所の制限にとどまり、開業そのものが許されないこととなるものではない。しかしながら、薬局等を自己の職業として選択し、これを開業するにあたつては、経営上の採算のほか、諸般の生活上の条件を考慮し、自己の希望する開業場所を選択するのが通常であり、特定場所における開業の不能は開業そのものの断念にもつながりうるものであるから、前記のような開業場所の地域的制限は、実質的には職業選択の自由に対する大きな制約的効果を有するものである。
(引用終わり)
(医薬品ネット販売事件第1審より引用。太字強調は筆者。)
本件規制は,薬局又は店舗販売業といった一般用医薬品の販売を行う業態が許可制になっていることを前提として,薬局又は店舗販売業の許可を得た者による第一類・第二類医薬品の販売において有資格者による対面での販売及び情報提供を義務付け,これに伴い,その販売方法から郵便等販売を除外するもので,それ自体としては,狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するものではなく,営業活動の態様に対する規制の範疇に属するものであると解される。原告らは,インターネット販売による医薬品販売業という職業を想定すべきであり,本件規制は,そのような職業の選択に関する制限である旨主張する…が…店舗を有しないインターネット販売専業の医薬品販売業といった営業形態は薬事法令上認められておらず,医薬品のインターネット販売という営業については,薬局又は店舗販売業の許可を得た者が一般用医薬品の郵便等販売を行うという薬事法令上認められている場合の販売方法の一態様として位置付けられているところ,薬局又は店舗販売業の許可を得た者は郵便等販売が認められなくなっても通常の販売方法による医薬品の販売ができなくなるわけではないから,本件規制は,その法的性質としては,営業活動の態様に対する規制であると解するのが相当である。原告らは,本件規制は,前掲最高裁昭和50年4月30日大法廷判決が職業選択の自由そのものに対する規制であるとした適正配置規制以上の規制であり,職業選択の自由そのものに対する規制と解すべきであると主張するが,上記最高裁判決の事例は,許可を得られないことにより薬局としての営業が全くできない場合であるのに対し,本件規制の場合は,薬局又は店舗において全区分の一般用医薬品を販売することが可能であり,上記のとおり,薬事法令上,インターネット販売は郵便等販売という販売方法の一態様であってそれ自体が独立した職業と位置付けられているものではないことからすれば,本件規制は上記最高裁判決の場合とは事例を異にし,同判決の適正配置規制以上の規制であるということもできない。もっとも,各種商品のインターネット販売を主要な事業内容とする業者が,医薬品のインターネット販売を目的として店舗販売業の許可を受け,医薬品の販売方法として,実際には通常の店舗における販売を行わず,専ら郵便等販売の一態様としてのインターネット販売を行っている場合に,当該業者としては,事実上,医薬品の販売に係る営業活動そのものを制限される結果となることを考慮すると,上記のとおり本件規制はその法的性質としては営業活動の態様に対する規制ではあるものの,上記の業態の業者に関する限り,当該規制の事実上の効果としては,規制の強度において比較的強いものということができる。
(引用終わり)
とはいえ、この点を適切に指摘した上で、本条例案8条2項のみを区別して薬事法事件判例の規範に沿って検討する余裕のある人は、現場ではあまりいなかっただろうと思います。仮に、薬事法事件判例の規範に沿って検討する場合には、買うつもりのない人たちの目にむやみに触れることがないようにするという利益は重要な公共の利益とはいえないとして、手段審査に入ることなく違憲の結論になりそうです。このことは、三段階審査論風にいえば、営業の自由の制約の程度が大きい反面で保護される利益の重要性が低いことから、法益の均衡、すなわち、相当性を欠くということを意味しています。
エ.具体的な規制手段の必要性・合理性については、問題文にわざわざ具体的な数字を含めた事情が挙がっているのだから、とにかくこれらの事情を書き写しまくる、というのがポイントです。ただし、ただ書き写すのではなく、ある程度は整理して書き写すことが必要です。なお、ここでの「必要性」とは、講学上の必要性、すなわち、LRA不存在ではなく、判例の用いる素朴な意味での必要性を意味しています。
(参考答案より引用)
市民が食料品などの日用品を購入するために日常的に利用する店舗に規制図書類が置かれていると、本件利益の保護の点で望ましくないことから、本条例8条1項の規制の必要性がないとはいえない。青少年は規制図書類を購入できない(同条3項)以上、青少年が通う学校周辺を規制区域とし、およそ買うつもりのない青少年の目にむやみに触れることがないようにすることは本件利益の保護に資するから、同条2項の規制の必要性がないとはいえない。同条4項の措置は、およそ買うつもりのない人の目にむやみに触れることがないようにし、本件利益の保護に資するから、同項の規制の必要性がないとはいえない。
A市内にある約3000店舗の小売店のうち、1項事業者の営業する店舗は約2400店舗であり、そのうちの約600店舗が規制図書類を販売しているものの、規制図書類の売上げが売上げ全体に占める割合は微々たるものである。売上げ全体のごく一部であっても、規制図書類を販売していること自体に集客力があるとして反対するものもあるが、一部であり、スーパーマーケットやコンビニエンスストアの事業者や業界団体の中には、既に自主規制を行っているところもあり、反対はそれほど多くはない。
同条2項の規制区域が市全体の面積に占める割合は20パーセント程度で、市内の商業地域に限っても規制区域が占める割合は30パーセント程度であり、市内の規制区域にある店舗は約700店舗で、そのうち規制図書類の販売等をする店舗は約150店舗あるが、そのうち規制図書類の売上げが売上げ全体の20パーセントを超えるのは、僅か10店舗にすぎない。2項事業者には条例案に反対する意見もあるが、これまでどおりの営業ができなくなっても、正にそれを市民が求めている以上はやむを得ないものであり、規制区域内であっても規制図書類の販売等ができないだけで、販売等を継続したいのであれば、市内にも店舗を移転できる場所はある。
その他事業者は、今後、同条4項の要件を満たすための内装工事等が必要となるが、本条例においては、規制図書類の販売等の禁止がその営業に与える影響が大きいこと、通常、書店やレンタルビデオ店に規制図書類が置かれていることは一般に理解されているはずであることを考慮し、同項の義務を履行すれば規制図書類を販売等できる旨の配慮がされている。
同条1項、2項違反の場合には、本条例9条の改善命令・業務停止命令を待つことなく刑事罰の対象となる(本条例15条1号)とはいえ、その法定刑は、6月以下の懲役又は50万円以下の罰金にとどまる(同条柱書)。本条例8条4項違反の場合には、同条例9条の改善命令・業務停止命令に違反して初めて刑事罰の対象となる(本条例15条1号、2号)。
公布により直ちに施行されるのではなく、6か月の期間がある。
(引用終わり)
当サイトで繰り返し説明しているとおり、現在の司法試験は、これができるかどうかで、合否を分けます。「バカバカしい」と思って、これができない人は、極端に受かりにくくなる。当否は別として、そのような現実を、正しく認識し、対策をする必要があるのです。ただ書き写すだけでも、これだけの文字数になるわけですから、「自分の言葉で評価」など、している余裕はありません。
問題文の事実や条文を忠実に引用する癖を付けておくと、初歩的な問題文の読み間違えや条文構造に関する誤解を避けることができます。例えば、本問で、本条例案8条1項及び2項との関係で、「9条の改善命令・業務停止命令があるので、段階的規制である。」などと書いてしまいがちですが、条文を忠実に書き下す癖が付いていれば、8条1項、2項及び3項違反については、15条1号で直ちに刑事罰の対象となることに気が付くはずです。「自分の言葉」で書く癖が付いている人は、何となく漠然とした感覚で言葉を選んでしまいがちなので、初歩的な読み間違いを犯しやすくなるのです。
4.参考答案では触れていない論点について、説明しておきましょう。
(1)まず、法律と条例の関係です。これは、問題文の以下の部分から、問われているであろうことが読み取れます。
(問題文より引用。太字強調は筆者。)
甲:刑法第175条で処罰の対象となっている「わいせつ」な文書等には当たらないものもこの条例では規制の対象となるのですね。
X:そうです。刑法上の「わいせつ」な文書等に当たらないものも,もちろん対象になります。刑法上の「わいせつ」な文書等に該当すれば,頒布や陳列自体が犯罪行為となるわけですから,むしろ,この条例では刑法で処罰対象とならないものを規制することに意味があると考えています。
(引用終わり)
過去問をきちんと検討している人であれば、問題文に「あの文言」がないことも、今年は法律と条例の関係を問う趣旨であることを読み取るヒントになるでしょう。
(平成26年司法試験論文式試験公法系第1問より引用。太字強調は筆者。)
〔設問1〕
あなたがC社の訴訟代理人となった場合,あなたは,どのような憲法上の主張を行うか。
なお,法人の人権及び道路運送法と本条例との関係については,論じなくてよい。
(引用終わり)
(平成29年予備試験論文式試験憲法より引用。太字強調は筆者。)
〔設問〕
甲の立場からの憲法上の主張とこれに対して想定される反論との対立点を明確にしつつ,あなた自身の見解を述べなさい。なお,法律と条例の関係及び訴訟形態の問題については論じなくてよい。
(引用終わり)
(平成28年予備試験論文式試験憲法より引用。太字強調は筆者。)
〔設問〕
Xの立場からの憲法上の主張とこれに対して想定される反論との対立点を明確にしつつ,あなた自身の見解を述べなさい。なお,条例と要綱の関係及び訴訟形態の問題については論じなくてよい。
(引用終わり)
とはいえ、だから法律と条例の関係を書くべきかというと、上位を狙うのでない限り、そうではない、というのが、司法試験の難しいところです。なぜ、書くべきでないのか。本問では、図書類を購入する側と販売等をする店舗の主観的権利との関係が主に問われていることは、問題文から明らかです。
(問題文より引用)
甲:規制の対象となる図書類の範囲や,規制の手段,内容について,議論があり得ると思います。図書類を購入する側と販売等をする店舗の双方の立場でそれぞれの権利を検討しておく必要がありそうですね。図書類を購入する側としては,規制図書類の購入等ができない青少年と18歳以上の人を想定しておく必要があります。また,販売等をする店舗としては,条例の規制による影響が想定される3つのタイプの店舗,すなわち,第一に,これまで日用品と並んで規制図書類を一部販売してきたスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの店舗,第二に,学校周辺の規制区域となる場所で規制図書類を扱ってきた店舗,第三に,規制図書類とそれ以外の図書類を扱っている書店やレンタルビデオ店を考えておく必要があるでしょう。
(引用終わり)
上記の問題文の記載は、甲とXの会話の最後の部分であり、とても目立ちます。ほとんどの受験生が、この部分に着目して答案を組み立てようとするでしょうから、購入する側の知る権利や販売等をする店舗の営業の自由を落とすことは、考えられない。したがって、配点のほとんどは、この部分に集中することになるわけです。参考答案を見て頂ければわかるとおり、本問は、知る権利と営業の自由との関係を書くだけで、相当な文字数になります。法律と条例の関係まで論じる余裕は、ほとんどないでしょう。したがって、この点は出題趣旨には入ってくるであろうことがわかっていても、敢えて落としてしまうべきなのです。
なお、仮にこの点を論じるのであれば、徳島市公安条例事件判例の規範を明示して当てはめることに加え、A市においてのみこのような規制を設けることについて、地域間格差と平等原則に関する最大判昭33・10・15についても触れることが可能でしょう。超上位でないと気が済まない、という人は、十分な筆力を身に付けた上で、こういったことにも触れていくことになります。
(2)明確性や漠然性、過度広範性(※6)についても、参考答案では全く触れていませんが、出題趣旨には入ってくるでしょう。
※6 講学上は「広汎」と表記されることもありますが、法令用語としては「広範」と表記するものとされています(「法令における漢字使用等について」(平成22年11月30日内閣法制局長官決定))。
(問題文より引用。太字強調は筆者。)
甲:規制の対象には,写真や動画などの画像だけでなく,漫画やアニメなど絵による描写も含むのですか。
X:含みます。絵による描写でも,殊更に性的感情を刺激する類のものがありますし,普通の漫画と同じように書店などで陳列され,子供が普通の漫画だと思って手に取って見てしまうので困るという意見も寄せられています。
(引用終わり)
過去問をきちんと検討している人であれば、ここでも、「あの文言」がないことに気付くでしょう。
(平成25年司法試験論文式試験公法系第1問より引用。太字強調は筆者。)
〔設問1〕
あなたがAの訴訟代理人となった場合,2つの不許可処分に関してどのような憲法上の主張を行うか。
なお,道路交通法に関する問題並びにB県各条例における条文の漠然性及び過度の広汎性の問題は論じなくてよい。
(引用終わり)
しかし、旧司法試験からの確立された傾向として、明確性や漠然性、過度広範性については、「書いてもほとんど点にならない。」ことが知られています。なぜかといえば、「一般人にも読み取れる。」、「いや読み取れない。」という水掛け論に終始するだけになってしまいがちだからです。そのようなところには、ほとんど配点は置かれない。なので、よほど他に書くことがないとか、漠然性、過度広範性が抽象的な第三者の権利の援用などに絡んでくるような場合を除いては、書かない方がよい。本問でも、上記(1)で説明したとおり、メインの知る権利と営業の自由だけで相当の文字数を要するわけですから、こんなものは書いている余裕はないのです。
なお、この点の解説として、広島市暴走族追放条例事件判例を参照するものが出てきそうですが、この判例を参照するには、やや注意を要します。
(広島市暴走族追放条例事件判例より引用。太字強調は筆者。)
なるほど,本条例は,暴走族の定義において社会通念上の暴走族以外の集団が含まれる文言となっていること,禁止行為の対象及び市長の中止・退去命令の対象も社会通念上の暴走族以外の者の行為にも及ぶ文言となっていることなど,規定の仕方が適切ではなく,本条例がその文言どおりに適用されることになると,規制の対象が広範囲に及び,憲法21条1項及び31条との関係で問題があることは所論のとおりである。しかし,本条例19条が処罰の対象としているのは,同17条の市長の中止・退去命令に違反する行為に限られる。そして,本条例の目的規定である1条は,「暴走行為,い集,集会及び祭礼等における示威行為が,市民生活や少年の健全育成に多大な影響を及ぼしているのみならず,国際平和文化都市の印象を著しく傷つけている」存在としての「暴走族」を本条例が規定する諸対策の対象として想定するものと解され,本条例5条,6条も,少年が加入する対象としての「暴走族」を想定しているほか,本条例には,暴走行為自体の抑止を眼目としている規定も数多く含まれている。また,本条例の委任規則である本条例施行規則3条は,「暴走,騒音,暴走族名等暴走族であることを強調するような文言等を刺しゅう,印刷等をされた服装等」の着用者の存在(1号),「暴走族名等暴走族であることを強調するような文言等を刺しゅう,印刷等をされた旗等」の存在(4号),「暴走族であることを強調するような大声の掛合い等」(5号)を本条例17条の中止命令等を発する際の判断基準として挙げている。このような本条例の全体から読み取ることができる趣旨,さらには本条例施行規則の規定等を総合すれば,本条例が規制の対象としている「暴走族」は,本条例2条7号の定義にもかかわらず,暴走行為を目的として結成された集団である本来的な意味における暴走族の外には,服装,旗,言動などにおいてこのような暴走族に類似し社会通念上これと同視することができる集団に限られるものと解され,したがって,市長において本条例による中止・退去命令を発し得る対象も,被告人に適用されている「集会」との関係では,本来的な意味における暴走族及び上記のようなその類似集団による集会が,本条例16条1項1号,17条所定の場所及び態様で行われている場合に限定されると解される。
(引用終わり)
上記判例は、普通に読むと本来適用対象とすべきでないものが含まれるような文言になっている条例について、条例全体の趣旨やその委任に基づく規則の規定等を総合して合憲限定解釈を行った点に特色があります。本問の場合は、どうか。
(問題文より引用)
(規制図書類)
第7条
次の各号に掲げるものを撮影した画像又は描写した図画(殊更に性的感情を刺激する画像又は図画に限る。)を含む図書類を規制図書類とする。
(1) 性交又は性交類似行為
(2) 衣服の全部又は一部を着けない者の卑わいな姿態
(引用終わり)
この条文を見て、「本条例7条2号は衣服の一部を着けない者の卑わいな姿態をも対象としているが、これでは単に靴下を脱いでいるだけであっても、それが卑わいであれば規制図書類となってしまうから、過度に広範である。」などと論じてしまう人は、条文をきちんと読むべきです。同条柱書括弧書きにおいて、「殊更に性的感情を刺激する画像又は図画に限る。」とする限定が付されているわけですから、単に靴下を脱いだだけでは、規制図書類に当たらないことは明らかです。この柱書括弧書きの限定が強力で、仮に性交を撮影した画像であっても、「殊更に性的感情を刺激する」ものといえなければ、規制図書類に当たらない。さてここで、刑法175条1項におけるわいせつ性とはどのようなものであったのか、復習してみましょう。
(刑法175条1項)
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
(チャタレー事件判例より引用。太字強調は筆者。)
しからば刑法の前記法条の猥褻文書(および図画その他の物)とは如何なるものを意味するか。従来の大審院の判例は「性欲を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画その他一切の物品を指称し、従つて猥褻物たるには人をして羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものたることを要する」ものとしており(例えば大正七年(れ)第一四六五号同年六月一〇日刑事第二部判決)、また最高裁判所の判決は「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」としている(第一小法廷判決、最高裁判所刑事判例集五巻六号一〇二六頁以下)。そして原審判決は右大審院および最高裁判所の判例に従うをもつて正当と認めており、我々もまたこれらの判例を是認するものである。
要するに判例によれば猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される。
(引用終わり)
すなわち、刑法175条1項のわいせつ性は、以下の3つの要件を満たす場合に認められます。
① 徒らに性欲を興奮又は刺激させること。
② 普通人の正常な性的羞恥心を害すること。
③ 善良な性的道義観念に反すること。
本条例案の「殊更に性的感情を刺激する画像又は図画」という限定は、上記とどう違うのか。一見すると、本条例案7条柱書括弧書きは上記①だけに対応しており、②及び③の要素は不要であるから、この点において、刑法175条1項の文書又は図画よりも広い、ということがいえそうです。 しかし、「殊更に性的感情を刺激するが、羞恥心を害することはない画像」とか、「殊更に性的感情を刺激するが、善良な性的道義観念に反しない画像」というものを観念できるかというと、容易に想定し難いでしょう。ここで、「殊更に」という文言が付されている意味を考える必要があります。「殊更に」とは、合理的な(正当な)理由がなく、など客観的な不当性ないし違法性の意味と、知りながら敢えて、など故意に近い主観的な意味の2通りに使われることが一般です。前者の例が、行手法11条1項、34条です。
(行手法。太字強調は筆者。)
11条1項 行政庁は、申請の処理をするに当たり、他の行政庁において同一の申請者からされた関連する申請が審査中であることをもって自らすべき許認可等をするかどうかについての審査又は判断を殊更に遅延させるようなことをしてはならない。
34条 許認可等をする権限又は許認可等に基づく処分をする権限を有する行政機関が、当該権限を行使することができない場合又は行使する意思がない場合においてする行政指導にあっては、行政指導に携わる者は、当該権限を行使し得る旨を殊更に示すことにより相手方に当該行政指導に従うことを余儀なくさせるようなことをしてはならない。
後者の例が、自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律(自動車運転死傷行為処罰法)2条5号です。
(自動車運転死傷行為処罰法2条5号。太字強調は筆者。)
赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為
(最決平20・10・16より引用。太字強調は筆者。)
赤色信号を「殊更に無視し」とは,およそ赤色信号に従う意思のないものをいい,赤色信号であることの確定的な認識がない場合であっても,信号の規制自体に従うつもりがないため,その表示を意に介することなく,たとえ赤色信号であったとしてもこれを無視する意思で進行する行為も,これに含まれると解すべきである。
(引用終わり)
本問の場合には、前者とみるのが自然でしょう。すなわち、「社会的にみて許容されないような態様で」という程度の意味に理解できます。そうすると、これは上記の②及び③も含意すると考える余地が出てきます。
なお、児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(児童ポルノ等規制法)及び私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律(リベンジポルノ被害防止法)にも「殊更に」の文言が使われており、本条例案と似た用例にみえますが、少し意味が違います。
(児童ポルノ等規制法2条3項3号)
衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって、殊更に児童の性的な部位(性器等若しくはその周辺部、臀でん部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり、かつ、性欲を興奮させ又は刺激するもの
(リベンジポルノ被害防止法2条1項3号)
衣服の全部又は一部を着けない人の姿態であって、殊更に人の性的な部位(性器等若しくはその周辺部、臀でん部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり、かつ、性欲を興奮させ又は刺激するもの
これらの場合は、「殊更に」が「露出され又は強調されている」に掛かっていますから、入浴や海水浴の際の家族・友人間での撮影の場合など、社会的にみて許容されるような理由のある場合でもないのに性的な部位が露出又は強調されているか、すなわち、性的な部位の露出又は強調が、性欲の興奮又は刺激に向けられたものか、という程度の意味になります。
(衆院法務委員会平成26年06月04日より引用。太字強調は筆者。)
ふくだ峰之委員 「殊更に」とは、一般的には、合理的な理由なく、わざわざとか、わざととかという意味と解されるところでございますが、これは、当該画像の内容が性欲の興奮または刺激に向けられていると評価されるものかどうか判断するために加えさせていただきました。
その判断は、性的な部位が描写されているのか、あるいは児童の性的な部位の描写が画像全体に占める割合、例えば時間だったり枚数だったりですね、そうしたものの客観的要素に基づいてなされるというものと考えております。
(引用終わり)
(参院法務委員会平成26年06月17日より引用。太字強調は筆者。)
宮城直樹警察庁長官官房審議官 この法の二条三項三号の「殊更に」というのは、一般的には合理的な理由がなくわざわざと、この意味でございます。これは、例えばその画像の内容が性欲の興奮や刺激に向けられているかどうか、また、そういったふうに評価されるかどうかと、こういったことを判断するために加えられたものというふうに考えてございます。
したがいまして、その判断でございますが、例えば性的な部位が描写されているかどうか、児童の性的な部位の描写が画像で占められるのはどの程度になっているか、こういったことを個別のその映像、画像に基づきまして判断して摘発してまいると、こういうふうに考えてございます。
(引用終わり)
本条例案の場合には、児童ポルノ等規制法2条3項3号やリベンジポルノ等被害防止法2条1項3号のような構造にはなっておらず、「殊更に」が、直接に「性的感情を刺激する」に掛かっているので、同様の解釈はできないわけです。
さて、このように考えた場合には、本条例案7条の規制図書類は、刑法175条1項の「わいせつな文書、図画」と同様のもののうち、本条例案7条各号に当たるものだけを限定して規制していることになります。このようになってしまっている原因は、本条例案7条柱書括弧書きの限定が、同条各号全体に掛かってしまっているという条文構造にあります。このことは、児童ポルノ等規制法2条3項各号と比較して読むとよくわかります。
(児童ポルノ等規制法2条3項。太字強調は筆者。)
この法律において「児童ポルノ」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって、次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。
一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって、殊更に児童の性的な部位(性器等若しくはその周辺部、臀でん部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり、かつ、性欲を興奮させ又は刺激するもの
同項1号には、「性欲を興奮させ又は刺激するもの」という限定は付されていませんから、1号に該当すれば、それが「性欲を興奮させ又は刺激するもの」に当たるかを問うことなく、児童ポルノに該当し得ることになります。本条例案の場合は、7条1号の「性交又は性交類似行為」に該当する場合であっても、「殊更に性的感情を刺激する」ものといえなければ、規制図書類には該当しない構造になっている。そして、児童ポルノ等規制法2条3項の2号及び3号の「性欲を興奮させ又は刺激するもの」に何も限定が付されていない点も、重要なポイントです。
(衆院法務委員会平成11年05月14日より引用。太字強調は筆者。)
大森礼子参議院議員 まず、刑法第百七十五条の「わいせつ物頒布等」の中に出てきますわいせつの意義につきましては、今委員もおっしゃいましたが、最高裁の判例がありまして、正確に申し上げますと、「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」というふうに判断されております。ですから、刑法のわいせつ物頒布等につきましては、「わいせつな文書、図画その他の物」ですが、すべてに「わいせつ」がかかるという意味で、この概念において判断されることになります。
児童ポルノの方は、まず一号ポルノと言われるものにつきましては、性交または性交類似行為に係る児童の姿態に関するものでありまして、このときには、こういうものであれば、それだけで違法性が強いものとして処罰の対象としております。そして、二号、三号につきまして、一定の児童の姿態を記載してございますけれども、これにつきましては、「性欲を興奮させ又は刺激するもの」、こういう文言を入れてございます。
そこで、最高裁判例のわいせつ概念とどこが違うかといいますと、まず、「徒らに」ということはこちらは要求しておりません。つまり、過度にという意味ですけれども、過度であることを要しないということです。それから、「普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」であるか否かについて、論ずるまでもなく規制すべきものとした趣旨でございます。
このために、児童ポルノの方につきましては、刑法のわいせつに該当しないものも含み得ることになります。
(引用終わり)
本条例案では、「殊更に」を付してしまったために、「社会的にみて許容されないような態様で性的感情を刺激する」という意味となり、刑法175条1項のわいせつ性と同様に解釈し得るものになってしまっているのです(※7)。
※7 「殊更に」は、「徒に」に対応するだけで、「普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」であることを問わない点は児童ポルノ等規制法と変わらないのだ、という解釈もできなくはなさそうです。しかし、前に説明したように、「殊更に」は、単なる程度概念だけでなく、合理的な理由がない、不当な、違法な、反社会的な、というような規範的要素を含む用語ですから、それは苦しいといえます。仮にそのような趣旨なら、「殊更に」に代えて、「著しく」などの用語を用いる方が、より適切でしょう。ただし、それでも、「著しく性欲を興奮させ又は刺激するが普通人の正常な性的羞恥心を害しない。」とか、「著しく性欲を興奮させ又は刺激するが善良な性的道義観念に反しない。」という場合を想定することは困難なようにも思います。これらの要件は互いに関連し合っているので、いずれかを満たす場合に限定すると、ほぼ自動的に他の要件も充足することになりやすいのです。
そうすると、本条例案7条の規定は既にかなり限定されたものなので、広島市暴走族追放条例事件判例のように、普通に読むと本来適用対象とすべきでないものが含まれるような文言になっている条例について、条例全体の趣旨やその下位法令である規則の規定等を総合して合憲限定解釈を行うべき場面であるとは、いえないことになる。したがって、本問では、広島市暴走族追放条例事件判例を敢えて参照するまでもない、ということになりそうです。
もっとも、このような考え方は、担当者Xの意図に反します。
(問題文より引用。太字強調は筆者。)
甲:刑法第175条で処罰の対象となっている「わいせつ」な文書等には当たらないものもこの条例では規制の対象となるのですね。
X:そうです。刑法上の「わいせつ」な文書等に当たらないものも,もちろん対象になります。刑法上の「わいせつ」な文書等に該当すれば,頒布や陳列自体が犯罪行為となるわけですから,むしろ,この条例では刑法で処罰対象とならないものを規制することに意味があると考えています。
(引用終わり)
仮に、7条柱書括弧書きの「殊更に性的感情を刺激する画像又は図画」という強力な限定にもかかわらず、担当者Xの意図どおり、刑法175条のわいせつ性を有しないものが規制対象となるとするなら、法令の通常の文言解釈では含まれないものを規制対象としようとしていることになります。これが、厳密な意味における本問の明確性や漠然性、過度広範性の問題の所在といえるでしょう。実は、広島市暴走族追放条例事件判例は、ここで少し関係してくるのです。
(広島市暴走族追放条例事件判例における堀籠幸男補足意見より引用。太字強調は筆者。)
一般に条例については,法律と比較し,文言上の不明確性が見られることは稀ではないから,このような場合,条例の文面を前提にして,他の事案についての適用関係一般について論じ,罰則規定の不明確性を理由に違憲と判断して被告人を無罪とする前に,多数意見が述べるように,本条例が本来規制の対象としている「集会」がどのようなものであるかをとらえ,合理的な限定解釈が可能であるかを吟味すべきである。確かに,集会の自由という基本的人権の重要性を看過することは許されず,安易な合憲限定解釈は慎むべきであるが,条例の規定についてその表現ぶりを個々別々に切り離して評価するのではなく,条例全体の規定ぶり等を見た上で,その全体的な評価をすべきものであり,これまで最高裁判所も,このような観点から合憲性の判断をしてきているのである。
(中略)
本条例の委任規則である本条例施行規則2条は,市長の留意事項として,基本的人権を制限する等の権限の逸脱を戒め,3条は,中止・退去命令を出すに際しては,1号ないし6号に掲げる事項を勘案して判断するものとし,1号ないし6号を通読すれば,市長の中止・退去命令の対象は,既存の暴走族及びこれと同視することができる集団に限るものと解されるのであり,市長が適法に中止・退去命令を発することができる場合を,本条例施行規則はこのようなものとして規定しているのである。もっとも,本条例施行規則が規制対象をこのように限定的にとらえているということから直ちに本条例自体の規定の文言の広範性,不明確性が補正,修正されるというものではない。しかし,本条例施行規則3条が,市長の中止・退去命令の対象を既存の暴走族及び社会通念上これと同視できる集団に限っているということは,本条例の規制の対象範囲は本来は広いが,その中から特にこれらを取り出して条例よりも限定した範囲で規制しようとしたというのではなく,本条例の規制対象を前提にしてその範囲の行為の取締りを実現するための細則を市長が定めたものと見るべきである。その意味で,本条例施行規則の規定は,条例自体がどのような範囲の行為を規制しようとしているのかを確認するための重要な要素と見ることができるのである。このような観点で見ると,本件においては,本条例による処罰対象行為は合理的な限定解釈が十分に可能であり,限定解釈の下においては,本条例による規制が憲法21条1項,31条に違反するものでないことは多数意見が述べるとおりである。
(引用終わり)
(広島市暴走族追放条例事件判例における藤田宙靖反対意見より引用。太字強調は筆者。)
多数意見のような解釈は,広島市においてこの条例が制定された具体的な背景・経緯を充分に理解し,かつ,多数意見もまた「本条例がその文言どおりに適用されることになると,規制の対象が広範囲に及び,憲法21条1項及び31条との関係で問題があることは所論のとおりである」と指摘せざるを得なかったような本条例の粗雑な規定の仕方が,単純に立法技術が稚拙であることに由来するものであるとの認識に立った場合に,初めて首肯されるものであって,法文の規定そのものから多数意見のような解釈を導くことには,少なくとも相当の無理があるものと言わなければならない。
(中略)
私もまた,法令の合憲限定解釈一般について,それを許さないとするものではないが,表現の自由の規制について,最高裁判所が法令の文言とりわけ定義規定の強引な解釈を行ってまで法令の合憲性を救うことが果たして適切であるかについては,重大な疑念を抱くものである。本件の場合,広島市の立法意図が多数意見のいうようなところにあるのであるとするならば,「暴走族」概念の定義を始め問題となる諸規定をその趣旨に即した形で改正することは,技術的にさほど困難であるとは思われないのであって,本件は,当審が敢えて合憲限定解釈を行って条例の有効性を維持すべき事案ではなく,違憲無効と判断し,即刻の改正を強いるべき事案であると考える。
(引用終わり)
要するに、地方公共団体の立法技術は内閣に比べて劣る(内閣法制局のような強力な組織がない。)のだから、多少稚拙な文言であっても救済的に解釈してやるべきなのか、ということです(同様の問題意識は、議員立法による場合にも生じ得ます。衆参両院にも法制局はありますが、その規模は内閣法制局には到底及ばないからです。)。広島市暴走族追放条例事件の事案は、条文が広すぎるが、条例や規則全体の趣旨から限定解釈する場合でした。その逆に、条文が狭すぎるが、条例全体の趣旨から拡大解釈できるか、規則において規制対象を明らかにすれば、その対象が7条の文言より拡大していても、7条はそのようなものを規制対象とする趣旨であると読めるとして許されると考えることができるか。問題文の設定からすれば、「後で問題になっても救済的に解釈してもらえることを見越して、現在の文言を維持するか。」、「そのような救済的解釈がされるとは限らないから、さっさと文言を直せよ。」という問題ともいえます。出題者がここまで意識して出題しているとは思いませんが、敢えて厳密に検討すれば、こうなるということです。いずれにせよ、答案で書くようなことではないことは明らかです。
(3)事前規制か事後規制か、という問題もあります。本条例案9条、15条の規定ぶりを見る限り、「事後規制に決まってるだろ。」と思いたくなりますし、実際のところ、結論としてはそれで正しいわけですが、事前規制「的」ではないか、という点について、検討する余地はあるのです。ポイントは、「事前規制か否かの判断には、受領可能性が重要である。」という理解です。
(岐阜県青少年保護育成条例事件判例における伊藤正己補足意見より引用。太字強調及び※注は筆者。)
本件条例による規制が憲法二一条二項前段にいう「検閲」に当たるとすれば、その憲法上の禁止は絶対的なものであるから、当然に違憲ということになるが、それが「検閲」に当たらないことは、法廷意見の説示するとおりである。その引用する最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決(民集三八巻一二号一三〇八頁)によれば、憲法にいう「検閲」とは、「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきである」ところ、本件条例の規制は、六条一項による個別的指定であっても、また同条二項による規則の定めるところによる指定(以下これを「包括指定」という。)であっても、すでに発表された図書を対象とするものであり、かりに指定をうけても、青少年はともかく、成人はこれを入手する途が開かれているのであるから、右のように定義された「検閲」に当たるということはできない。
もっとも、憲法二一条二項前段の「検閲」の絶対的禁止の趣旨は、同条一項の表現の自由の保障の解釈に及ぼされるべきものであり、たとえ発表された後であっても、受け手に入手されるに先立ってその途を封ずる効果をもつ規制は、事前の抑制としてとらえられ、絶対的に禁止されるものではないとしても、その規制は厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許されるものといわなければならない(最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁(※注 北方ジャーナル事件判例)参照)。本件条例による規制は、個別的指定であると包括指定であるとをとわず、指定された後は、受け手の入手する途をかなり制限するものであり、事前抑制的な性格をもっている。
(引用終わり)
受領可能だから事前規制そのものではない。しかし、入手の手段がかなり制限されていれば、事前規制的な性格を有するものとなる。本問の場合も、18歳以上の人の入手手段がかなり制限されるのだ、と理解するのであれば、事前規制的である、といい得るのです。仮に、そうなるとどうなるか。事前規制そのものであれば、上記伊藤正己補足意見も触れているとおり、北方ジャーナル事件判例の法理によって、「厳格かつ明確」な要件が要求される。泉佐野市市民会館事件判例は、その「厳格かつ明確」な要件を示した一例です(同判例は北方ジャーナル事件判例を引用している。)。では、事前規制「的」な場合はどうかというと、萎縮的効果に対する考慮から刑罰法規と同様の明確性(刑罰法規の明確性に関する徳島市公安条例事件判例の規範)が要求され、合憲限定解釈をする場合にも、同様の明確性が要求される、というのが判例法理です。
(札幌税関事件判例より引用。太字強調及び※注は筆者。)
表現の自由は、前述のとおり、憲法の保障する基本的人権の中でも特に重要視されるべきものであつて、法律をもつて表現の自由を規制するについては、基準の広汎、不明確の故に当該規制が本来憲法上許容されるべき表現にまで及ぼされて表現の自由が不当に制限されるという結果を招くことがないように配慮する必要があり、事前規制的なものについては特に然りというべきである。法律の解釈、特にその規定の文言を限定して解釈する場合においても、その要請は異なるところがない。したがつて、表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許されるのは、その解釈により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず、また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものでなければならない(最高裁昭和四八年(あ)第九一〇号同五〇年九月一〇日大法廷判決・刑集二九巻八号四八九頁(※注 徳島市公安条例事件判例)参照)。けだし、かかる制約を付さないとすれば、規制の基準が不明確であるかあるいは広汎に失するため、表現の自由が不当に制限されることとなるばかりでなく、国民がその規定の適用を恐れて本来自由に行い得る表現行為までも差し控えるという効果を生むこととなるからである。
(引用終わり)
一方で、青少年保護を目的とし、青少年を受け手とする場合に限った規制については、明確性の要請は緩めてよい、とするのが、前記岐阜県青少年保護育成条例事件における伊藤正己補足意見です。
(岐阜県青少年保護育成条例事件判例における伊藤正己補足意見より引用。太字強調は筆者。)
およそ法的規制を行う場合に規制される対象が何かを判断する基準が明確であることを求められるが、とくに刑事罰を科するときは、きびしい明確性が必要とされる。表現の自由の規制の場合も、不明確な基準であれば、規制範囲が漠然とするためいわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、不当に表現行為を抑止することになるために、きびしい基準をみたす明確性が憲法上要求される。本件条例に定める有害図書規制は、表現の自由とかかわりをもつものであるのみでなく、刑罰を伴う規制でもあるし、とくに包括指定の場合は、そこで有害図書とされるものが個別的に明らかにされないままに、その販売や自販機への収納は、直ちに罰則の適用をうけるのであるから、罪刑法定主義の要請も働き、いっそうその判断基準が明確でなければならないと解される。もっとも、すでにふれたように青少年保護を目的とした、青少年を受け手とする場合に限っての規制であることからみて、一般の表現の自由の規制と同じに考えることは適当でなく、明確性の要求についても、通常の表現の自由の制約に比して多少ゆるめられることも指摘しておくべきであろう。
(引用終わり)
そこで、本条例案のような場合には、明確性をどの程度要求すべきか、とりわけ、8条1項及び2項(18歳以上の人を対象)と3項(青少年を対象)とで区別すべきか、というのが、1つの論点となり得るわけです(※8)。先ほど、明確性は書くべきでない、という話をしたばかりでした。またそこに戻ってくるのか。そういうわけで、この点についても、触れない方が無難だということになるわけです。
※8 販売等をする店舗に対しては罰則(本条例案15条)があるので、罪刑法定主義に基づく明確性が要求されることは明らかですが、購入する側については罰則がないので、このような問題が生じ得ます。ただし、購入する側の知る権利との関係で明確性が必要なのかというと、購入する側は規制の名宛人ではないわけですから、微妙なところです。
(4)過少包摂性についても、一応問題となり得ます。一般に、規制目的を達するための必要性が認められない領域まで規制対象とする場合を過剰包摂といいますが、過少包摂はその逆で、規制目的を達するための必要性が認められる領域のうちの一部だけが規制対象とされている場合の問題をいいます。規制対象を限定しているのだからいいじゃないか、と思うかもしれませんが、同じく規制が必要であるのに、なぜ、そのうちの一部だけを選別して規制対象としているのか、恣意的に特定の対象だけを狙い撃ちにしているのではないか、規制対象となる領域と規制対象とならない領域の区別の合理性が問題となり得るわけです。これは一種の平等原則の問題ですから、14条1項の問題として考えることもできるのでしょうが、一般には、被侵害法益である憲法上の権利の枠の中で考えられています。米国では、主に表現の自由の領域で問題とされているのですが、我が国の判例においては、財産権の分野において、過少包摂の問題意識が示されています。
(森林法事件判例より引用。太字強調は筆者。)
森林法は森林の分割を絶対的に禁止しているわけではなく、わが国の森林面積の大半を占める単独所有に係る森林の所有者が、これを細分化し、分割後の各森林を第三者に譲渡することは許容されていると解されるし、共有森林についても、共有者の協議による現物分割及び持分価額が過半数の共有者(持分価額の合計が二分の一を超える複数の共有者を含む。)の分割請求権に基づく分割並びに民法九〇七条に基づく遺産分割は許容されているのであり、許されていないのは、持分価額二分の一以下の共有者の同法二五六条一項に基づく分割請求のみである。共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に分割請求権を認めた場合に、これに基づいてされる分割の結果は、右に述べた譲渡、分割が許容されている場合においてされる分割等の結果に比し、当該共有森林が常により細分化されることになるとはいえないから、森林法が分割を許さないとする場合と分割等を許容する場合との区別の基準を遺産に属しない共有森林の持分価額の二分の一を超えるか否かに求めていることの合理性には疑問があるが、この点はさておいても、共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者からの民法二五六条一項に基づく分割請求の場合に限つて、他の場合に比し、当該森林の細分化を防止することによつて森林経営の安定を図らなければならない社会的必要性が強く存すると認めるべき根拠は、これを見出だすことができないにもかかわらず、森林法一八六条が分割を許さないとする森林の範囲及び期間のいずれについても限定を設けていないため、同条所定の分割の禁止は、必要な限度を超える極めて厳格なものとなつているといわざるをえない。
(引用終わり)
上記判例は、規制対象となる領域と規制対象とならない領域の区別の合理性とは別に、規制対象となる領域について、規制対象とならない場合と比べて規制をすべき社会的必要性が強く存すると認めるべき根拠があるか、という観点からも検討をしている点が特徴的です(このことは、過剰包摂と過少包摂の区別が、実は相対的であることを示しています。同一の規制目的が妥当する領域において規制対象となっていない部分があり、それで特に不都合が生じていないということは、規制対象となっている部分についても実は規制の必要がないのではないか、という話になるからです。)。
本問では、青少年の健全な育成や買うつもりのない人たちの目にむやみに触れることがないようにするという目的を達するために、図書類を規制しているわけですが、これらの規制目的が妥当するのは図書類だけに限らないのではないか。図書類のみを狙い撃ちにしているのではないか、という観点から、過少包摂性が問題となり得るわけです。このことについては、問題文で若干の示唆があります。
(問題文より引用)
甲:いわゆる性的玩具類の販売や映画館での成人向け映画の上映などの規制はどうするのですか。
X:これらは専門の店舗で販売等されるのが通常で,既に別の法律や条例の規制対象になっているので,本条例の対象とは考えていません。
(引用終わり)
いわゆる性的玩具類の販売や映画館での成人向け映画の上映なども同じく規制の必要性があるだろうけれども、これらは専門の店舗で販売等されるのが通常で、既に別の法律や条例の規制対象になっているので、これらを規制対象としない合理性がある。これは、裏を返せば、図書類については、専門の店舗で販売等されるのが通常とはいえず、いまだに法律や条例の規制対象となっていないので、特に規制の対象とすべき社会的必要性が強く認められる、という意味になるでしょう。過少包摂との関係では、そのような意味のあるやり取りだということになります。
では、インターネット上の画像等についてはどうか、という点も、問題になりそうです。インターネット上に性的な画像が溢れているのに、これを規制しないでおいて、図書類だけを規制してどうするのか、ということですね。これについては、インターネット上の画像等については、その性質上、A市以外のサーバーにアップロードされている画像等をA市で閲覧することが可能である以上、これを規制することはA市の条例で規制できる範囲を超えており、法律で規制すべき事柄といえます。また、インターネットについては、青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律(青少年インターネット環境整備法)等による規律も別に設けられています。さらに、以下の問題文の事情からは、インターネット上の画像等よりも、図書類の方が、特に規制対象とすべき社会的必要性があるといえるでしょう。
(問題文より引用。太字強調は筆者。)
X:いわゆる「成人向け」「アダルトもの」と呼ばれる雑誌だけでなく,最近では一般の週刊誌として販売される雑誌を含む様々な出版物等に,裸の女性の写真など性的な画像が掲載され,それらがスーパーマーケットやコンビニエンスストアなど市民が食料品や生活用品を購入するために日常的に利用する店舗で販売されています。近年,一部のコンビニエンスストアでは,そのような雑誌類の取扱いをやめる動きも出てきていますが,飽くまでも一部の店舗による自主的なものにとどまっています。この状況に対して,市民からは,青少年の健全な育成に悪影響を及ぼす,安心して子供と買い物に行けないという意見が寄せられているほか,特に女性を中心として,見たくもないものが目に入って不快であるとか,思わぬところで性的なものに触れないようにしてほしいという意見が最近多く寄せられるようになりました。市内には,マンションや団地,住宅地が多く,子供がいる世帯が多数居住していますが,そのような地区の自治会からも性的な画像を掲載した出版物等の販売や貸与について規制を求める要望が出ています。
(引用終わり)
そういうわけで、過少包摂の問題については、比較的容易にクリアできそうだ、という印象です。いずれにせよ、答案で触れるような論点とはいえないでしょう。