従来、判例は、実行の着手を判断するに当たり、法益侵害に至る「客観的な危険性」の語を用いていました。
(参照判例) ・ダンプカー事件判例 ・クロロホルム事件判例 ・覚醒剤海中投下事件判例 ・うなぎ稚魚密輸事件判例 |
ところが、近時の特殊詐欺事件判例及びすり替え窃盗事件判例は、単に「危険性」の語を用います。
(参照判例) ・特殊詐欺事件判例 ・すり替え窃盗事件判例 |
その説明の1つとして、特殊詐欺事件判例及びすり替え窃盗事件判例では、行為者の計画等を正面から考慮して危険性を判断しているため、「客観的」の語を用いるのにふさわしくないからだ、というものが考えられます(特殊詐欺事件判例に係る調査官解説参照)。確かに、クロロホルム事件判例では、行為者が第1行為に死の危険性があることを認識していなかったけれども、客観的には死の危険性があったという点を重視しているので、その点に「客観的」の語を付する意味があったと考える余地があります。
(参照判例)クロロホルム事件判例 |
もっとも、本来、着手の文脈で用いる「客観的」とは、主観主義刑法学(近代派)の主張する主観説を採らないという意味で用いられたものです。なので、必ずしも、「客観的な危険性」という語に行為者の認識、計画等を考慮しないという含意があるとはいえない。古典的な事例として、ピストルの引き金に手を掛けた時点における殺人未遂の成否というものがあります。この事例では、その行為者が引き金を引くつもりがなく、威嚇のつもりなのか、引き金を引くつもりであっても、当てるつもりがないか、足など枢要部でない部位を狙っているか、あるいは心臓や頭部など枢要部を狙うつもりかという点を考慮しなければ、死の危険性を評価することができません。このことは、形式的「客観」説からも、実質的「客観」説からも、一般に肯定されていたことです(※)。このように、法益侵害の危険を客観的に評価するに当たり、行為者の計画等は考慮要素となり得るのです。ですので、厳密にいえば、計画等を考慮するから「客観的」の語を用いてはいけない、ということにはなりません。
※ 刑法マニアであれば、「結果無価値一元論からでも、例外的に主観的違法要素になるやつだよね。主観的違法要素全面否定説はあまり支持されてないよ。」、「ここでいう意思は故意ではなくて行為意思だからね。」、「だから、犯行計画は故意の要素ではなくても、複数の行為意思の組み合わせと評価できるときには考慮できるのだよ。」などと目を輝かせながら話せるところでしょう。
とはいえ、今どき主観説を真顔で主張する人はいません。そのことを踏まえれば、主観説を採らないというだけのために、「客観的な」の語を付する意味は乏しいといえるでしょう。また、「客観的な」の語を付することによって、計画等を考慮しないという誤解を与えかねないのであれば、そのような語を用いないということにも、相応の理由があるといえるでしょう。
以上のことを踏まえると、答案で着手の規範を書く場合にも、敢えて「客観的な」の語を付する必要はなくなったといえそうです。文字数の節約という意味でも、今後は、単に「危険性」と表記すれば足りるでしょう。