何かをするということは、何かをしないということ

 司法試験の世界では、特定の勉強法が、「ためになるから」とか、「勉強になるから」という理由で推奨されたり、論文の答案に何を書くかということについて、「多少なりとも配点があるのだから書くべきだ。」とか、「書かないより書いた方がマシであるなら書くべきだ。」という意見が出されたりします。そして、それがそれなりに説得力のあるものとして流布していたりする。そこでは、「何かをする」ということは、すなわち、「何かをしない」ということを意味する、という発想が欠けていると感じます。この発想は、「親が溺れた子を救助せずにスマホゲームをしている場合、スマホゲームをするという作為と同時に、救助しないという不作為をしており、刑法上の評価としては、後者のみが問題となる(スマホゲームをしたから子が溺死した、とは考えない。)。」という文脈においても用いられ、経済学、会計学、経営学、社会学等で用いられる「機会費用」の概念の基礎にもなっている一般的な思考方法です。
 さて、ある時間に、A、B、C及びDという勉強をすることができるという場合において、Aという勉強をしたとします。それによって、100の学習効果を得ることができました。そのことから、「Aには学習効果があるのだから、Aの勉強法を採るべきだ。」といえるかというと、そうではありません。それは同時に、同じ時間に行うことのできたB、C及びDという勉強をしなかった、ということを意味するからです。仮に、Bは50の効果、Cは100の効果、Dは200の効果であるなら、「Aではなく、Dの勉強法を採るべきだった。」ということになる。なので、ある勉強法について、「ためになるから」とか、「勉強になるから」という理由によって、「その勉強法を採るべきだ。」とは全然いえないのです。「同じ時間で行うことのできる他の勉強法と比較して、最も効果が高い方法だから」ということまで、いえる必要がある。当サイトでは、論文に関しては、まとまった時間があるのであれば、事例問題を解いて答案を書き、復習をすることで、インプットとアウトプットを同時に行うという勉強法が、ほとんどのケースで最も効果が高いと考えているので、「ひたすら答案を書きましょうね。」と言い続けているのでした。
 それから、ある時間を割いて答案に書くべき論述として、A、B、C及びDが考えられるという場合において、Aという論述をしたとします。その論述は、5点の評価に値するとしましょう。そのことから、「Aを書けば5点を得られるのだから、Aを書くべきだ。」といえるかというと、そうではありません。それは同時に、同じ時間に書くことのできたB、C及びDという論述を書かなかった、ということを意味するからです。仮に、Bは1点、Cは5点、Dは10点の評価に値するというのであれば、「Aではなく、Dを書くべきだった。」ということになる。なので、論文の答案に何を書くかということについて、「多少なりとも配点があるのだから書くべきだ。」とか、「書かないより書いた方がマシであるなら書くべきだ。」とは全然いえないのです。「同じ時間に書くことのできる他の論述と比較して、最も加点が大きい論述だから」ということまで、いえる必要がある。当サイトでは、これまでの出題傾向の下では、概ね、「規範の明示>事実の摘示>事実の評価>規範の理由付け>論点の問題提起」の関係が成り立つから、「規範の理由付けを書くくらいなら、同じ時間で事実の摘示や事実の評価を増やすことを考えましょうね。」と言い続けているのでした。また、上記の発想があれば、「法律効果は要件をすべて満たさないと発生しませんからね!だから、常に必ず要件は全部答案で検討して下さい!」とか、「違法性阻却事由、責任阻却事由があったら犯罪は成立しませんからね!だから、違法性や責任が問題にならない場合でも、常に「違法性阻却事由、責任阻却事由は存在しない。」と必ず答案に書きましょう!」というような指導が誤りであることも、理解できるでしょう。それは、「他に同じ時間で書くことのできる評価の高い論述は思い付きませんでした。」と言っているに等しいのです。

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