判例上、表現の自由の制約が直接的か、間接的・付随的かは、「意見表明そのものの禁止(制約)をねらいとするか」によって区別されます。
(猿払事件判例より引用。太字強調は筆者。) 公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは、単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約に過ぎず……(略)……。 (引用終わり) (戸別訪問禁止事件判例より引用。太字強調は筆者。) 戸別訪問の禁止は、意見表明そのものの制約を目的とするものではなく、意見表明の手段方法のもたらす弊害、すなわち、戸別訪問が買収、利害誘導等の温床になり易く、選挙人の生活の平穏を害するほか、これが放任されれば、候補者側も訪問回数等を競う煩に耐えられなくなるうえに多額の出費を余儀なくされ、投票も情実に支配され易くなるなどの弊害を防止し、もつて選挙の自由と公正を確保することを目的としている」 (引用終わり) (寺西判事補事件判例より引用。太字強調は筆者。) 裁判官が積極的に政治運動をすることを、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約にすぎず……(略)……。 (引用終わり) |
このことは、憲法学の概説書にも一応説明があるのですが、では、「意見表明そのものを禁止する」ってどういうこと?ということについては、説明がないのが通常です。
「意見表明そのものを禁止する」とは何か。例えば、「増税に反対する意見表明は、これをしてはならない。」という法令は、意見表明そのものを禁止します。条文の形にすると、とてもわかりやすい、単純な話であることがわかるでしょう。もっとも、「そんな極端な法令なんてあるわけねーじゃん。」と思うかもしれません。それが実は、あるのです。
現行法上、「わいせつな意見表明は、これをしてはならない。」、「人の名誉を毀損する意見表明は、これをしてはならない。」、「公共の安全を脅かす重大犯罪をせん動する意見表明は、これをしてはならない。」という法規範(不作為義務規範)が存在します。「そんな条文見たことない。」と思うかもしれませんが、これは明文によるまでもない当然の規範なので、その規範によって定められている義務の履行確保のため、いきなり刑罰法規を置くことができる。これを、自然犯ないし実質犯といいます。刑法175条1項、230条1項、破防法39条、40条は、その例です。
(参照条文) ・刑法 230条1項 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。 ・破壊活動防止法 40条(政治目的のための騒乱の罪の予備等)
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補足すると、刑罰は、それ自体としては新たに義務を賦課するものではなくて、既にある義務を刑罰の威嚇・心理的圧迫によって履行させようとする間接強制の手段です。
(指紋押捺事件判例より引用。太字強調は筆者。) 本件当時の制度内容は、押なつ義務が3年に一度で、押なつ対象指紋も一指のみであり、加えて、その強制も罰則による間接強制にとどまるものであって、精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであったと認められる。 (引用終わり) |
一般に、「〇〇をしてはならない。」という規定が不作為義務を課す規範であって、「〇〇をする」ことに関する権利・自由の制限となる。そして、義務規範が法律で規定されている場合に、その義務の履行を確保するために、「〇〇条の義務に違反した者は、~に処する。」という刑罰法規を置くことがあり、これを法定犯ないし形式犯といいます。刑罰法規が権利制約の要素ではなく、その目的達成手段の要素であるとされるのは、そのためです。
(令和2年司法試験の採点実感(公法系科目第1問)より引用。太字強調は筆者。) 罰則があるので緩やかな基準を採れないという答案があったが,審査基準は権利に対する制約の態様,強さで定立されるべきである。罰則の有無は目的達成手段の審査において考慮されるべき事柄であると思われる。 (引用終わり) (衆院予算委員会昭38・2・9より引用。太字強調は筆者。) 林修三内閣法制局長官 行政法規で、一定の行為に対して、その一定の行為を禁止する、あるいは一定の行為を命令するといういわゆる命令、禁止規定でございますが、これはその施行を担保する意味で、罰則をつけておる例が多いわけでございますが、しかし、すべてのそういう命令、禁止規定に罰則がついておるわけではない……(略)……結局、大きな立法政策の問題として、いわゆる刑事罰を付するに適当なものかどうか、要するに、刑事罰をもって担保するほどの社会、公共の公益に対する侵害であるかどうか、あるいはそれを一定のいわゆる行政秩序罰といわれる程度の違反程度にするのが適当かどうか、さらにまた下っては、いわゆる行政官庁の行政的な処分をもって担保するに足りると考えるか、あるいはもう一つ下って、何のそれに対する法律的効果も付さないで、一応純然たる精神規定にとどめるのを適当とするか、これは大きな立法政策の問題でございまして、命令、禁止規定だから必ず罰則をつけなければならぬというものではないわけでありまして、これは結局その行為の社会的評価、あるいは大きな意味の社会的評価、それによって考えるべきものだと思うわけでございます。 (引用終わり)
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自然犯ないし実質犯と法定犯ないし形式犯の区別それ自体については、刑法学の本にひっそりと書いてあるでしょう。もっとも、ほとんどの場合、定義・分類の説明があるくらいで、大事なことが説明されていない。すなわち、「どうして本体の義務規範を明文で置かないことが許されるのか。」ということです。
一般に、自然犯・実質犯は、類型的に他人の権利を侵害し、あるいは反道徳的・反社会的な行為であることから、義務規定を置かずにいきなり刑罰法規が定められているんですよ、と説明されたりします。しかし、憲法41条によれば、新たに国民に義務を課し、又は権利を制限する法規範は、法律で規定しなければなりません(法律留保ないし法規創造力の原則)。仮に、わいせつな意見表明、人の名誉を毀損する意見表明、公共の安全を脅かす重大犯罪をせん動する意見表明をすることが、憲法21条1項の表現の自由の行使として保障されるのであれば、それらの意見表明を禁止することは新たな義務の賦課ないし権利の制限となるわけですから、その旨を明示する法律の規定が必要です。法律の規定を要しないというためには、禁止される行為が、権利・自由の行使とはいえないことが必要である。このように考えてくると、類型的に他人の権利を侵害し、あるいは反道徳的・反社会的な行為を処罰する刑罰法規が自然犯とされることの意味がわかります。すなわち、それらの行為は、憲法で保障された権利・自由の行使ではないからです。わいせつな意見表明、人の名誉を毀損する意見表明、公共の安全を脅かす重大犯罪をせん動する意見表明についていえば、これらは、いずれも表現の自由の保障範囲に含まれていないのです。
(参院法務委員会昭30・7・4より引用。太字強調は筆者。) 鈴木忠一最高裁判所長官代理者(事務総局人事局長) いわゆる自然犯と、それから自然犯に対して行政犯ないしは取締り法規の上の犯罪、そういう場合は性質も違いますし、立法がなくてもわれわれの自然的な感情として、人の物を取り、他人を殺し、傷をつけるというようなことは、立法を待たずして、われわれ人間としてこれに対して本能的に嫌悪を感じ、鎮圧をすべきだというように自然的に考えられますのでありますけれども、いわゆる取締法規となりますと、本来ならば放任していいところのものが、立法があるがゆえにわれわれが行動の自由を阻害されるのだという面がたくさん出て参ります……(略)……。 (引用終わり) (貴族院帝国憲法改正案特別委員会昭21・9・16より引用。表記現代化、※注及び太字強調は筆者。) 金森徳次郎国務大臣 この濫用してはならない(※注:現行憲法12条後段の文言を指す。)と云ふことは、是は道徳的な意味を持つて居るばかりではありませぬで、この権利の範囲が濫用してはならないと云ふ枠で制限せられて居ると云ふことを意味して居ります……(略)……其のことが若し現実の問題になりますれば、最高裁判所に依つて判定せらるるのでありますから、大体に於きまして原案第11条(筆者注:現行憲法12条を指す。)は、唯教訓的なる規定ではないのであります、非常に重大なる意味を持つて居ります……(略)……この憲法に書いてある多くの権利そのまま、裸に(※注:明治憲法における法律留保のような制限規定がないという意味である。)規定してあります、何とかの権利を有す、何とかを侵されないと、はつきり規定してあります、しかし其の背後に於きまして、第11条(※注:現行憲法12条を指す。)の影響する所として、其の濫用してはならない区域に於ては保障はされてない……(略)……。 (引用終わり) (奈良県ため池条例事件判例より引用。太字強調は筆者。) ため池の破損、決かいの原因となるため池の堤とうの使用行為は、憲法でも、民法でも適法な財産権の行使として保障されていないものであつて、憲法、民法の保障する財産権の行使の埒外にある……(略)……。 (引用終わり) (ビニール本事件判例における伊藤正己補足意見より引用。太字強調は筆者。 性器または性交を具体的に露骨かつ詳細な方法で描写叙述し、その文書図画を全体としてみたときにその支配的効果がもつぱら受け手の好色的興味に感覚的官能的に訴えるものであつて、その時代の社会通念によつていやらしいと評価されるもの……(略)……このようなハード・コア・ポルノは、特定の思想や意見を伝達するものとはいえず、社会的価値を欠いているか、または法的に評価できる価値をほとんどもつものではないと思われる。したがつて……(略)……憲法21条1項の保護の範囲外にあり、これに法的規制を加えることがあつても、表現の自由に関する憲法的保障の問題は生じないと考えられる……(略)……。 (引用終わり) (ポルノカラー写真誌事件判例における団藤重光補足意見より引用。太字強調は筆者) 単に人の性慾を刺戟するだけの意味しかないような写真は、性質上、むしろ性具の類と異なるところはないのであつて、それは広い意味での表現には相違ないが、「表現の自由」をいうばあいの特殊な意義における「表現」には該当しないというべきであろう。 (引用終わり) (謝罪広告事件判例より引用。太字強調は筆者。) 他人の行為に関して無根の事実を公表し、その名誉を毀損することは言論の自由の乱用であつて、たとえ、衆議院議員選挙の際、候補者が政見発表等の機会において、かつて公職にあつた者を批判するためになしたものであつたとしても、これを以て憲法の保障する言論の自由の範囲内に属すると認めることはできない。 (引用終わり) (渋谷暴動事件判例より引用。太字強調は筆者。) 破壊活動防止法39条及び40条のせん動は……(略)……表現活動としての性質を有している。しかしながら、……(略)……右のようなせん動は、公共の安全を脅かす現住建造物等放火罪、騒擾罪等の重大犯罪をひき起こす可能性のある社会的に危険な行為であるから、公共の福祉に反し、表現の自由の保護を受けるに値しない……(略)……。 (引用終わり) |
憲法学説では、上記のような類型の意見表明も表現の自由の保障が及ぶが、「低価値表現」なので緩やかな基準が妥当するという見解が有力です。しかし、その考え方だと、どうして、「わいせつな意見表明は、これをしてはならない。」、「人の名誉を毀損する意見表明は、これをしてはならない。」、「公共の安全を脅かす重大犯罪をせん動する意見表明は、これをしてはならない。」という権利制限を正当化する法律がないのに、いきなり義務履行確保の規定である刑罰法規を置くことができるのか、説明が困難です。学者は、憲法学の枠内で整合性がとれていれば、それ以上は考える必要がないのでそれでよいのですが、実際に立法をするということになると、そうはいかない。このことは、憲法学説と判例・政府見解の乖離が激しくなる背景の1つなのですが、今回の話も、それが顕在化する例の1つといえるでしょう。