令和6年予備試験憲法の参考判例等

三菱樹脂事件判例より引用。太字強調は当サイトによる。)

 原判決は……(略)……上告人が、その社員採用試験にあたり、入社希望者からその政治的思想、信条に関係のある事項について申告を求めるのは、憲法19条の保障する思想、信条の自由を侵し、また、信条による差別待遇を禁止する憲法14条、労働基準法3条の規定にも違反し、公序良俗に反するものとして許されないとしている。
 しかしながら、憲法の右各規定は、同法第3章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない。ここのことは、基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革に徴し、かつ、憲法における基本権規定の形式、内容にかんがみても明らかである。のみならず、これらの規定の定める個人の自由や平等は、国や公共団体の統治行動に対する関係においてこそ、侵されることのない権利として保障されるべき性質のものであるけれども、私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾、対立する可能性があり、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられ、ただ、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかるという建前がとられているのであつて、この点において国または公共団体と個人との関係の場合とはおのずから別個の観点からの考慮を必要とし、後者についての憲法上の基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは、決して当をえた解釈ということはできないのである。 
 もつとも、私人間の関係においても、相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるをえない場合があり、このような場合に私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。何となれば、右のような事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難であるばかりでなく、一方が権力の法的独占の上に立つて行なわれるものであるのに対し、他方はこのような裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優劣の関係にすぎず、その間に画然たる性質上の区別が存するからである。すなわち、私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである。そしてこの場合、個人の基本的な自由や平等を極めて重要な法益として尊重すべきことは当然であるが、これを絶対視することも許されず、統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律することができないことは、論をまたないところである。

(引用終わり)

八幡製鉄事件判例より引用。太字強調は当サイトによる。)

 会社は定款に定められた目的の範囲内において権利能力を有するわけであるが、目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行するうえに直接または間接に必要な行為であれば、すべてこれに包含されるものと解するのを相当とする。そして必要なりや否やは、当該行為が目的遂行上現実に必要であつたかどうかをもつてこれを決すべきではなく、行為の客観的な性質に即し、抽象的に判断されなければならないのである(最高裁昭和24年(オ)第64号・同27年2月15日第二小法廷判決・民集6巻2号77頁、同27年(オ)第1075号・同30年11月29日第三小法廷判決・民集9巻12号1886頁参照)。
 ところで、会社は、一定の営利事業を営むことを本来の目的とするものであるから、会社の活動の重点が、定款所定の目的を遂行するうえに直接必要な行為に存することはいうまでもないところである。しかし、会社は、他面において、自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他(以下社会等という。)の構成単位たる社会的実在なのであるから、それとしての社会的作用を負担せざるを得ないのであつて、ある行為が一見定款所定の目的とかかわりがないものであるとしても、会社に、社会通念上、期待ないし要請されるものであるかぎり、その期待ないし要請にこたえることは、会社の当然になしうるところであるといわなければならない。そしてまた、会社にとつても、一般に、かかる社会的作用に属する活動をすることは、無益無用のことではなく、企業体としての円滑な発展を図るうえに相当の価値と効果を認めることもできるのであるから、その意味において、これらの行為もまた、間接ではあつても、目的遂行のうえに必要なものであるとするを妨げない。災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、各種福祉事業への資金面での協力などはまさにその適例であろう。会社が、その社会的役割を果たすために相当な程度のかかる出捐をすることは、社会通念上、会社としてむしろ当然のことに属するわけであるから、毫も、株主その他の会社の構成員の予測に反するものではなく、したがつて、これらの行為が会社の権利能力の範囲内にあると解しても、なんら株主等の利益を害するおそれはないのである。
 以上の理は、会社が政党に政治資金を寄附する場合においても同様である。憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えてはいないのであるが、憲法の定める議会制民主主義は政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素なのである。そして同時に、政党は国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから、政党のあり方いかんは、国民としての重大な関心事でなければならない。したがつて、その健全な発展に協力することは、会社に対しても、社会的実在としての当然の行為として期待されるところであり、協力の一態様として政治資金の寄附についても例外ではないのである。論旨のいうごとく、会社の構成員が政治的信条を同じくするものでないとしても、会社による政治資金の寄附が、特定の構成員の利益を図りまたその政治的志向を満足させるためでなく、社会の一構成単位たる立場にある会社に対し期待ないし要請されるかぎりにおいてなされるものである以上、会社にそのような政治資金の寄附をする能力がないとはいえないのである。……(略)……要するに、会社による政治資金の寄附は、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものと認められるかぎりにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為であるとするに妨げないのである。

(引用終わり)

国労広島地本事件判例より引用。太字強調は当サイトによる。)

 労働組合の組合員は、組合の構成員として留まる限り、組合が正規の手続に従つて決定した活動に参加し、また、組合の活動を妨害するような行為を避止する義務を負うとともに、右活動の経済的基礎をなす組合費を納付する義務を負うものである、これらの義務(以下「協力義務」という。)は、もとより無制限のものではない労働組合は、労働者の労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的とする団体であつて、組合員はかかる目的のための活動に参加する者としてこれに加入するのであるから、その協力義務も当然に右目的達成のために必要な団体活動の範囲に限られるしかし、いうまでもなく、労働組合の活動は、必ずしも対使用者との関係において有利な労働条件を獲得することのみに限定されるものではない。労働組合は、歴史的には、使用者と労働者との間の雇用関係における労働者側の取引力の強化のために結成され、かかるものとして法認されてきた団体ではあるけれども、その活動は、決して固定的ではなく、社会の変化とそのなかにおける労働組合の意義や機能の変化に伴つて流動発展するものであり、今日においては、その活動の範囲が本来の経済的活動の域を超えて政治的活動、社会的活動、文化的活動など広く組合員の生活利益の擁護と向上に直接間接に関係する事項にも及び、しかも更に拡大の傾向を示しているのである。このような労働組合の活動の拡大は、そこにそれだけの社会的必然性を有するものであるから、これに対して法律が特段の制限や規制の措置をとらない限り、これらの活動そのものをもつて直ちに労働組合の目的の範囲外であるとし、あるいは労働組合が本来行うことのできない行為であるとすることはできない
 しかし、このように労働組合の活動の範囲が広く、かつ弾力的であるとしても、そのことから、労働組合がその目的の範囲内においてするすべての活動につき当然かつ一様に組合員に対して統制力を及ぼし、組合員の協力を強制することができるものと速断することはできない。労働組合の活動が組合員の一般的要請にこたえて拡大されるものであり、組合員としてもある程度まではこれを予想して組合に加入するのであるから、組合からの脱退の自由が確保されている限り、たとえ個々の場合に組合の決定した活動に反対の組合員であつても、原則的にはこれに対する協力義務を免れないというべきである、労働組合の活動が前記のように多様化するにつれて、組合による統制の範囲も拡大し、組合員が一個の市民又は人間として有する自由や権利と矛盾衝突する場合が増大し、しかも今日の社会的条件のもとでは、組合に加入していることが労働者にとつて重要な利益で、組合脱退の自由も事実上大きな制約を受けていることを考えると、労働組合の活動として許されたものであるというだけで、そのことから直ちにこれに対する組合員の協力義務を無条件で肯定することは、相当でないというべきである。それゆえ、この点に関して格別の立法上の規制が加えられていない場合でも、問題とされている具体的な組合活動の内容・性質、これについて組合員に求められる協力の内容・程度・態様等を比較考量し、多数決原理に基づく組合活動の実効性と組合員個人の基本的利益の調和という観点から、組合の統制力とその反面としての組合員の協力義務の範囲に合理的な限定を加えることが必要である

 (中略)

 労働組合が他の友誼組合の闘争を支援する諸活動を行うことは、しばしばみられるところであるが、労働組合ないし労働者間における連帯と相互協力の関係からすれば、労働組合の目的とする組合員の経済的地位の向上は、当該組合かぎりの活動のみによつてではなく、広く他組合との連帯行動によつてこれを実現することが予定されているのであるから、それらの支援活動は当然に右の目的と関連性をもつものと考えるべきであり、また、労働組合においてそれをすることがなんら組合員の一般的利益に反するものでもないのである。それゆえ、右支援活動をするかどうかは、それが法律上許されない等特別の場合でない限り、専ら当該組合が自主的に判断すべき政策問題であつて、多数決によりそれが決定された場合には、これに対する組合員の協力義務を否定すべき理由はない。右支援活動の一環としての資金援助のための費用の負担についても同様である。

 (中略)

 労働組合が労働者の生活利益の擁護と向上のために、経済的活動のほかに政治的活動をも行うことは、今日のように経済的活動と政治的活動との間に密接ないし表裏の関係のある時代においてはある程度まで必然的であり、これを組合の目的と関係のない行為としてその活動領域から排除することは、実際的でなく、また当を得たものでもない。それゆえ、労働組合がかかる政治的活動をし、あるいは、そのための費用を組合基金のうちから支出すること自体は、法的には許されたものというべきであるが、これに対する組合員の協力義務をどこまで認めうるかについては、更に別個に考慮することを要する
 すなわち、一般的にいえば、政治的活動は一定の政治的思想、見解、判断等に結びついて行われるものであり、労働組合の政治的活動の基礎にある政治的思想、見解、判断等は、必ずしも個々の組合員のそれと一致するものではないから、もともと団体構成員の多数決に従つて政治的行動をすることを予定して結成された政治団体とは異なる労働組合としては、その多数決による政治的活動に対してこれと異なる政治的思想、見解、判断等をもつ個々の組合員の協力を義務づけることは、原則として許されないと考えるべきである。かかる義務を一般的に認めることは、組合員の個人としての政治的自由、特に自己の意に反して一定の政治的態度や行動をとることを強制されない自由を侵害することになるからである。
 しかしながら、労働組合の政治的活動とそれ以外の活動とは実際上しかく截然と区別できるものではなく、一定の行動が政治的活動であると同時に経済的活動としての性質をもつことは稀ではないし、また、それが政治的思想、見解、判断等と関係する度合いも必ずしも一様ではない。したがつて、労働組合の活動がいささかでも政治的性質を帯びるものであれば、常にこれに対する組合員の協力を強制することができないと解することは、妥当な解釈とはいいがたい。例えば、労働者の権利利益に直接関係する立法や行政措置の促進又は反対のためにする活動のごときは、政治的活動としての一面をもち、そのかぎりにおいて組合員の政治的思想、見解、判断等と全く無関係ではありえないけれども、それとの関連性は稀薄であり、むしろ組合員個人の政治的立場の相違を超えて労働組合本来の目的を達成するための広い意味における経済的活動ないしはこれに付随する活動であるともみられるものであつて、このような活動について組合員の協力を要求しても、その政治的自由に対する制約の程度は極めて軽微なものということができる。それゆえ、このような活動については、労働組合の自主的な政策決定を優先させ、組合員の費用負担を含む協力義務を肯定すべきである。
 これに対し、いわゆる安保反対闘争のような活動は、究極的にはなんらかの意味において労働者の生活利益の維持向上と無縁ではないとしても、直接的には国の安全や外交等の国民的関心事に関する政策上の問題を対象とする活動であり、このような政治的要求に賛成するか反対するかは、本来、各人が国民の一人としての立場において自己の個人的かつ自主的な思想、見解、判断等に基づいて決定すべきことであるから、それについて組合の多数決をもつて組合員を拘束し、その協力を強制することを認めるべきではない。もつとも、この種の活動に対する費用負担の限度における協力義務については、これによつて強制されるのは一定額の金銭の出捐だけであつて、問題の政治的活動に関してはこれに反対する自由を拘束されるわけではないが、たとえそうであるとしても、一定の政治的活動の費用としてその支出目的との個別的関連性が明白に特定されている資金についてその拠出を強制することは、かかる活動に対する積極的協力の強制にほかならず、また、右活動にあらわされる一定の政治的立場に対する支持の表明を強制するにも等しいものというべきであつて、やはり許されないとしなければならない。
 次に、右安保反対闘争のような政治的活動に参加して不利益処分を受けた組合員に対する救援の問題について考えると、労働組合の行うこのような救援そのものは、組合の主要な目的の一つである組合員に対する共済活動として当然に許されるところである、それは同時に、当該政治的活動のいわば延長としての性格を有することも否定できない。しかし、労働組合が共済活動として行う救援の主眼は、組織の維持強化を図るために、被処分者の受けている生活その他の面での不利益の回復を経済的に援助してやることにあり、処分の原因たる行為のいかんにかかわるものではなく、もとよりその行為を支持、助長することを直接目的とするものではないから、右救援費用を拠出することが直ちに処分の原因たる政治的活動に積極的に協力することになるものではなく、また、その活動のよつて立つ一定の政治的立場に対する支持を表明することになるものでもないというべきである。したがつて、その拠出を強制しても、組合員個人の政治的思想、見解、判断等に関係する程度は極めて軽微なものであつて、このような救援資金については、先に述べた政治的活動を直接の目的とする資金とは異なり、組合の徴収決議に対する組合員の協力義務を肯定することが、相当である。なお、処分の原因たる被処分者の行為は違法なものでもありうるが、右に述べた救援の目的からすれば、そのことが当然には協力義務を否定する理由となるものではない(当裁判所昭和48年(オ)第498号組合費請求事件同50年11月28日第三小法廷判決参照)。

 (中略)

 政党や選挙による議員の活動は、各種の政治的課題の解決のために労働者の生活利益とは関係のない広範な領域にも及ぶものであるから、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかは、投票の自由と表裏をなすものとして、組合員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断ないしは感情等に基づいて自主的に決定すべき事柄である。したがつて、労働組合が組織として支持政党又はいわゆる統一候補を決定し、その選挙運動を推進すること自体は自由であるが(当裁判所昭和38年(あ)第974号同43年12月4日大法廷判決・刑集22巻13号1425頁(※注:三井美唄労組事件判例を指す。)参照)、組合員に対してこれへの協力を強制することは許されないというべきであり、その費用の負担についても同様に解すべきことは、既に述べたところから明らかである。

(引用終わり)

南九州税理士会事件判例より引用。太字強調及び※注は当サイトによる。)

1 税理士会が政党など規正法上の政治団体に金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する政治的要求を実現するためのものであっても、法49条2項で定められた税理士会の目的の範囲外の行為であり、右寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の決議は無効であると解すべきである。すなわち、

(一) 民法上の法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法43条)。この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行する上に直接又は間接に必要な行為であればすべてこれに包含され(最高裁昭和24年(オ)第64号同27年2月15日第二小法廷判決・民集6巻2号77頁、同27年(オ)第1075号同30年11月29日第三小法廷判決・民集9巻12号1886頁参照)、さらには、会社が政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為とするに妨げないとされる(最高裁昭和41年(オ)第444号同45年6月24日大法廷判決・民集24巻6号625頁(※注:八幡製鉄事件判例を指す。)参照)。

(二) しかしながら、税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない
 税理士は、国税局の管轄区域ごとに一つの税理士会を設立すべきことが義務付けられ(法49条1項)、税理士会は法人とされる(同条三項)。また、全国の税理士会は、D税連を設立しなければならず、D税連は法人とされ、各税理士会は、当然にD税連の会員となる(法49条の14第1、第3、4項)。
 税理士会の目的は、会則の定めをまたず、あらかじめ、法において直接具体的に定められている。すなわち、法49条2項において、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的とするとされ(法49条の2第2項では税理士会の目的は会則の必要的記載事項ともされていない。)、法49条の12第1項においては、税理士会は、税務行政その他国税若しくは地方税又は税理士に関する制度について、権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとされている。
 また、税理士会は、総会の決議並びに役員の就任及び退任を大蔵大臣に報告しなければならず(法49条の11)、大蔵大臣は、税理士会の総会の決議又は役員の行為が法令又はその税理士会の会則に違反し、その他公益を害するときは、総会の決議についてはこれを取り消すべきことを命じ、役員についてはこれを解任すべきことを命ずることができ(法49条の18)、税理士会の適正な運営を確保するため必要があるときは、税理士会から報告を徴し、その行う業務について勧告し、又は当該職員をして税理士会の業務の状況若しくは帳簿書類その他の物件を検査させることができる(法49条の19第1項)とされている。
 さらに、税理士会は、税理士の入会が間接的に強制されるいわゆる強制加入団体であり、法に別段の定めがある場合を除く外、税理士であって、かつ、税理士会に入会している者でなければ税理士業務を行ってはならないとされている(法52条)。

(三) 以上のとおり、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的として、法が、あらかじめ、税理士にその設立を義務付け、その結果設立されたもので、その決議や役員の行為が法令や会則に反したりすることがないように、大蔵大臣の前記のような監督に服する法人である。また、税理士会は、強制加入団体であって、その会員には、実質的には脱退の自由が保障されていない……(略)……。
 税理士会は、以上のように、会社とはその法的性格を異にする法人であり、その目的の範囲についても、これを会社のように広範なものと解するならば、法の要請する公的な目的の達成を阻害して法の趣旨を没却する結果となることが明らかである。

(四) そして、税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である
 税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その1つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負うしかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある
 特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法3条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。
 法は、49条の12第1項の規定において、税理士会が、税務行政や税理士の制度等について権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとしているが、政党など規正法上の政治団体への金員の寄付を権限のある官公署に対する建議や答申と同視することはできない。

(五) そうすると、前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり(最高裁昭和48年(オ)第499号同50年11月28日第三小法廷判決・民集29巻10号1698頁(※注:国労広島地本事件判例を指す。)参照)、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、法49条2項所定の税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない

2 以上の判断に照らして本件をみると、本件決議は、被上告人が規正法上の政治団体であるK税政へ金員を寄付するために、上告人を含む会員から特別会費として5000円を徴収する旨の決議であり、被上告人の目的の範囲外の行為を目的とするものとして無効であると解するほかはない。

(引用終わり)

群馬司法書士会事件判例より引用。太字強調は当サイトによる。)

 司法書士会は、司法書士の品位を保持し、その業務の改善進歩を図るため、会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とするものであるが(司法書士法14条2項)、その目的を遂行する上で直接又は間接に必要な範囲で、他の司法書士会との間で業務その他について提携、協力、援助等をすることもその活動範囲に含まれるというべきである。そして、3000万円という本件拠出金の額については、それがやや多額にすぎるのではないかという見方があり得るとしても、阪神・淡路大震災が甚大な被害を生じさせた大災害であり、早急な支援を行う必要があったことなどの事情を考慮すると、その金額の大きさをもって直ちに本件拠出金の寄付が被上告人の目的の範囲を逸脱するものとまでいうことはできない。したがって、兵庫県司法書士会に本件拠出金を寄付することは、被上告人の権利能力の範囲内にあるというべきである。
 そうすると、被上告人は、本件拠出金の調達方法についても、それが公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情がある場合を除き、多数決原理に基づき自ら決定することができるものというべきである。これを本件についてみると、被上告人がいわゆる強制加入団体であること(同法19条)を考慮しても、本件負担金の徴収は、会員の政治的又は宗教的立場や思想信条の自由を害するものではなく、また、本件負担金の額も、登記申請事件1件につき、その平均報酬約2万1000円の0.2%強に当たる50円であり、これを3年間の範囲で徴収するというものであって、会員に社会通念上過大な負担を課するものではないのであるから、本件負担金の徴収について、公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情があるとは認められない。したがって、本件決議の効力は被上告人の会員である上告人らに対して及ぶものというべきである。

(引用終わり)

佐賀地判平14・4・12より引用。太字強調及び※注は当サイトによる。)

 憲法20条1項前段は「信教の自由」を保障し、同条2項は何人も「宗教上の行為」への参加を強制されないと定めているが、そこでいう「信教」、「宗教」とは、超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為をいうと解される(津地鎮祭控訴審判決)。また、同条1項後段により特権の付与等が禁止された「宗教団体」、憲法89条により公金支出が禁止された「宗教上の組織若しくは団体」とは、特定の信仰を有する者らによる、当該宗教目的を達成するための組織若しくは団体を指すものと解される。
 そして、……(略)……神社神道は、礼拝の対象として様々な祭神をまつり、人々は、そこに人知を超えた超自然的、超人間的本質の存在を信じた上、無病息災や五穀豊穣の実現を一心に崇拝するのであるから、上記の定義に照らし、本質的に宗教であると認められる。
 また、甲神社は、氏子名簿はなく、明確な氏子組織も形成されていないが、これを崇拝する氏子の集団がいて(被告町区の住民らによって形成されている。)、祭司たる宮司は常駐していないものの、例祭、八朔といった祭りの際には、宮司が来て、五穀豊穣、風水害の避譲等の祈願(神事を神社神道の方式に従って行っている。さらに、甲神社は、①組織としての側面、すなわち、神社本庁を包括法人として宗教法人格を取得し、神社本庁に負担金を納める義務を負い、一定の行為を行うには神社本庁の許可が必要とされるなど、神社本庁に組織化されていること、②目的としての側面、すなわち、甲神社、神社本庁のいずれも、神社神道に従って祭祀を行うことを目的として定めていること、③施設としての側面、すなわち、甲神社の境内に宗教的意義を持つ多くの施設等が備えられていること(実際にそれらの施設で神事や参拝が行われる。)など、いずれの側面からみても、神社神道に基づいた宗教的活動を行うことを目的としていることは明らかである。これらの事実によると、甲神社は、憲法20条1項後段、憲法89条でいう宗教団体であると認められる。
 これに対し、被告らは、「日本は多神教の社会であり、仏教徒であっても正月の初詣とかその他お宮参りを併せ行っても特に違和感を持つことはない。行くか、行かないかはその人の個人的な感情、好き嫌いの問題でしかない。甲神社は、長い間、地域を守る氏神として住民らに受け入れられ、その境内は、演芸、スポーツ、盆踊りなど共通の使用目的に供されることが多く、住民らにとって神社というよりも公園となっており、神社固有の宗教的儀式が行われるということはまずないのであって、有形的にも無形的にもすぐれて土着性を有しており、無宗教に近い例祭は地区としての無病息災祈願、八朔は秋の収穫前に行われる虫や台風などの自然災害避譲を願う農耕社会に根付く伝統的風俗や習慣であり、宗教色は薄い。」などと主張して、甲神社は、もはや習俗、伝統にすぎず、宗教性は認められないと主張する
 しかし、日本国憲法が、過去の経験を踏まえて徹底した信教の自由を保障しようとしたことに照らすと、宗教の意義については可及的に広く捉えるべきであり、具体的な教義、教典の有無、体系的教義の有無、教祖の有無等は問わないと解され(したがって、民間信仰や宗教的な習俗であっても、なお宗教と認められる。)、かかる定義からすると、上記で検討したとおり、甲神社の宗教性は否定できない
 たしかに、……(略)……甲神社の境内には遊具やゲートボール場等の施設が置かれ、被告町区の住民らによって利用されていること、甲神社の境内は、被告町区の住民らの交流や憩いの場となり、公園施設としての機能を果たしていることなどの事実が認められ、その限りでは被告らの主張は的を得ている。また、C区長が、甲神社について、「長い歴史の中で、無病息災を願うと共に五穀豊穣を祈願して、老若男女の何もなかった単調な時代から、一つの憩いの場所として現在に至っています。…多くの区民の融和を図るのが目的です。」などと供述するとおり、被告町区では、長い間、甲神社が氏神として地域の人々の心の拠り所となり、また、例祭、八朔等の祭りによって住民らの絆が強まり、あるいは、区民の融和が図られてきたことは想像に難くない。しかも、その際、多くの住民は、神社神道の宗教性について特別な意識を持たなかったのではないかと考えられる。これらの事実によると、被告らが主張するとおり、甲神社、神社神道は、キリスト教等と比べても、日本の社会、風俗に深く溶け込んでおり、その宗教性が希薄になっていることもまた否定できない。
 しかしながら、日本国憲法の制定の経緯、すなわち、日本国憲法が、明治憲法下で神社神道が事実上国教化されたことを反省し、政教分離の制度をとった上、少数者の信教の自由の保障を徹底させようとしたことに照らすと、憲法20条、89条でいう宗教とは、第一には神社神道そのものを念頭に置いたものと言わざるを得ず、神社神道が当該地域に深く溶け込んでいるとか、多数の住民らが宗教であるとの意識を持たなかったとしても、それらのことから、甲神社の宗教性が否定されるものではない。被告らは、正月の初詣やお宮参りに行くか行かないかは、その人の個人的な感情、好き嫌いの問題でしかないというが、もともと特定の行為について宗教的な感情を抱くかどうかは極めて相対的な問題であり、それは、神社神道に対して宗教的な感情を明確に抱かない多数者にとってはそうかもしれないが、少数者にとっては必ずしもそうではない。本件での原告らがそうであったように、神社神道以外の確たる信仰を持つ者(少数者)にとっては、たとえ正月の初詣やお宮参りであっても、自己の信仰とは決して両立することのない禁忌となることもあり得るのであって、かかる意味でも、甲神社の宗教性は否定されないというべきである。
 したがって、神社神道は宗教であり、かつ、甲神社は宗教団体であるから、これにより、甲神社の宗教性が基礎付けられる
 以上のとおり、甲神社に宗教性が認められる以上、仮に、国ないしは地方公共団体が、原告らに甲神社に関わる宗教上の行為への参加等を強制すれば、それは憲法20条1項前段、2項違反となるが、本件で侵害主体として問題となっているのは地域自治会という任意団体であるから、私人間の問題となり、直ちに憲法違反の問題が生じるわけではない
 しかしながら、その強制の態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときには、原告らの信教の自由を侵害するものとして、民法1条、90条の趣旨に照らし、私人間においても違法と評価すべきである(三菱樹脂事件最高裁判決)。そして、違法性の有無、すなわち、強制の態様、程度が社会的な許容限度内であるか否かを判断するためには、原告らの被侵害利益の性格や、侵害主体とされる被告町区(地域自治会)の性格等について、さらに詳細に検討を加える必要がある。

 (中略)

 日本国憲法は、政教分離の制度をとった上、信教の自由を手厚く保障している(憲法20条、89条)。これは、人がある特定の信仰を持つということが、場合によってはその人が自らの価値観のすべてを信仰に委ねることをも意味し、信仰を持つことが人の精神的活動において中核をなすからである。かかる意味で、信教の自由は、憲法が保障する人権の中でも中核的な人権の一つといえる。
 そして、信仰が人間の存在にとって重要な意味を持つものであるが故に、そこに自由な領域を確保する利益は、対国家との関係だけでなく、私人に対する関係においても十分に保障されるのが望ましい(もっとも、私法関係においては、一次的には私的自治の原則が妥当するから、実際には様々な制約がある。)。かかる意味で、信仰の自由は、それを原告らが主張するような宗教的人格権と呼ぶかは別にして、私人間においても法的に保護された利益とみるべきである。
 これに対し、被告らは、原告らが主張する宗教的人格権はその内容が曖昧であり、具体的な法的利益として保障されたものとはいえないと主張するが、本件では、違法性の有無の判断をするために被侵害利益の性格を問題としているに過ぎないから、「具体的」な権利である必要まではないというべきである。
 したがって、原告らの信教の自由ないしは信仰の自由は、私人に対する関係においても十分に尊重されるべきである。そして、個人の信仰に権力的に介入することで、特定の信仰を禁止したり、信仰しない宗教上の行為に参加を強制したりすることは、個人の価値観自体を否定することを意味し、それはその人の存在自体に関わることでもあるから、そのような態様の侵害を受けたとき、信教の自由ないしは信仰の自由は、大きな危機にさらされることになる。
 しかしながら、私人間、とくに、本件のように、特定の私的団体とその構成員との関係において、団体が構成員に対して特定の宗教上の行為への参加等の強制をしたとしても、それが直ちに構成員の信教の自由ないしは信仰の自由の侵害であり、違法であるということはできない。それは、多くの場合、当該団体が任意加入の私的団体であること、すなわち、構成員が、①自らの自由な意思に基づき、そのような強制が伴う関係を形成したからであり(自己責任)、②意に反する強制があっても、当該団体から脱退することで侵害状態を回避することができるからにほかならない(脱退による回避)。
 しかし、形式的には任意加入の団体であっても、①加入の自由が大きく制限されていたり、②脱退の自由が大きく制限され、あるいは、困難なためにその期待可能性がないなど、実質的に強制加入の団体ないしはそれに準ずるような団体であると認められる場合には、事情が異なってくる。

 (中略)

 被告町区は、法律上は公法人ではなく、認可によって公共団体その他行政組織の一部とみなされるわけでもない(地方自治法260条の2第6項)。また、市町村長の一般的監督も受けない(同条15項、民法67条の準用がない。)。被告町区は、任意加入の団体であり、その加入及び脱退は、原則として区民の自由な意思による(地方自治法260条の2第7項は、正当な理由があれば加入拒否ができる旨定めるが、少なくとも脱退については、形式的には完全に自由である。)。
 しかしながら、任意加入の団体とはいっても……(略)……被告町区は、その目的に従い、地区の清掃活動や体育祭、敬老会、回覧板の回付等の当該地域における様々な共同活動、広報活動を行い、地域活動における中核的な役割を果たしている上、a市との連絡や市報の配布等の事務を行うなど、公共的な役割をも担っている。そして、それらの活動及び各種サービスは、その性質上、当該地域の居住者全員が参加し、享受することが予定されたものであり、かつ、それが望ましい状態でもある。実際にも、被告町区への加入状況をみると、平成13年当時において、被告町区の総世帯数は500戸以上、人口も1600人を超え、その規模は必ずしも小さくないにもかかわらず、加入率は98パーセント以上と極めて高い。これは、住民らに対する熱心な勧誘の結果だとみるにしても、任意加入の団体としては極めて高い割合であり、結局、被告町区では、事実上、運用として全戸加入制がとられていたものとみるほかない(加入及び脱退の自由が確保されているかぎり、運用として全戸加入制をとること自体は望ましいものであったといえるが、そのような運用をする以上、構成員に対する関係では、より慎重な態度が要求されるというべきである。)。そして、被告町区に加入しないということは、生活の重要な基盤である居住地において、上記のような地域の共同活動に参加できず、かつ、各種サービスを受けられないということであり、しかも、事実上、全戸加入制をとってきた被告町区の方針に明確に反することでもある(そのことで、地域社会から疎外されることもあり得るし、そのことに大きな心理的負担を感じる者は少なくないと考えられる。)。これらの事実によると、被告町区への加入は、強制されているとまではいえないにしても、その自由は大きく制限されているというべきである。
 また、被告町区からの脱退が自由であるとはいっても、b町には被告町区以外の地域自治会は存在しないから(地域占拠性)、脱退者には、居住地区の自治会には全く加入しないか(もちろん被告町区へ再加入するという方法もある。)、居住地から離れた他の自治会へ加入するか(自治会がもともと地域に密着した活動を行うものである以上、一般的には加入の利益は少ないものと考えられるし、転居となれば相当に困難である。)、いずれかの選択の余地しかない。これらの事実によると、脱退についても、その自由は大きく制限されているというべきである。
 そして、地方自治法は、地域自治会の法人化について、「良好な地域社会の維持及び形成に資する地域的な共同活動を行うことを目的としていること」(同法260条の2第2項1号)と定め、その目的の公共性を要件としている。また、「すべての居住者に構成員資格があること、その相当数の者が現に構成員となっていること」(同項2号)と定め、居住の事実のみが構成員の資格要件であり(特定の信仰、主義、主張等を共通にすることを前提としない。)、現に相当数の者が加入していることが法人化の前提であるとしている。さらに、「正当な理由がないかぎり地域自治会への加入を拒否できない。」(同条7項)と定め、区による加入拒否を制限しているが、これは、地域自治会が公共的な役割を果たしていることを考慮したからにほかならない。このことは、例えば一般企業が採否の自由(契約の自由)を有し、ことに傾向団体であれば、加入者に対して特定の信仰、主義、主張等を問うことが相当とされる場合もあるのとは明らかに異なる。さらに、「民主的な運営と不当な差別の禁止」(同条8項)、「特定の政党のための利用の禁止」(同条9項)などを定め、地域自治会の公共性を側面から担保しようとしている。
 これに対し、被告らは、「地域自治会は、自由加入の団体であり、何ら地域住民に対して強制力を持つような団体ではない。原告ら以外にも被告町区に加入していない者がいるし、他の自治会に加入している者もいる。原告らは加入しないことによる各種の不利益により、事実上加入が強制されていると主張するが、それらの不利益はいまだ加入を強制しているといえるような程度のものではない。」旨主張する。
 しかしながら、前記のとおり、平成13年当時において、総戸数500戸以上に対し、他の自治会に加入しているのがわずか7戸、原告ら以外でどこの自治会にも加入していないのはわずか2戸にすぎず、加入率は98パーセントを超えており、これは、都市化、住宅化が進み、他の地域からの転入者が増え続けている現状に照らすと、驚異的な加入率というほかない。また、たしかに、被告らが主張するとおり、加入しないことによる不利益は、各種サービスが受けられないという個々の部分だけをみると、すぐに日常生活に支障を来すような種類のものではないかもしれないが、むしろ、目に見えない部分のもの、地域社会から疎外されるという心理的負担は、個人差があるにせよ、軽視できるものではない
 したがって、被告町区は、その公共性が法的にも明確に位置づけられている上、加入及び脱退の自由が、いずれも大きく制限されており、これらによると、被告町区は、強制加入団体とは同視できないにしても、それに準ずる団体であるというべきである。そして、被告町区がこのような性格を持つ団体である以上、その運営は、構成員が様々な価値観、信仰を持つことを前提にしてなされなければならない

 (中略)

 本件では、被告町区は、原告らに対し、何らかの宗教上の行為への参加を直接に強制したわけではないが、特定宗教関係費(※注:甲神社、神社神道の維持及び活動のために支出された費用を指す。)の支出を続けながら、原告らから区費を徴収するということは、原告らにとっては、区民であるために、信仰しないことを誓った神社神道のために区費の支払を余儀なくされるということであり、これは、被告町区への加入及び脱退の自由が大きく制限されているという現状に照らすと、事実上、原告らに対し、宗教上の行為への参加を強制するものであったと認められる。
 したがって……(略)……被告町区の区費の徴収方法は、神社神道を信仰しない原告らにとっては、事実上、宗教上の行為への参加を強制するものであり、原告らの信教の自由ないしは信仰の自由を侵害し、憲法20条1項前段、2項、地方自治法260条の2第7項、8項等の趣旨に反し、違法であったと認められる。

(引用終わり)

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