排他的支配概念の弱点が問われた

1.司法試験平成26年刑事系第1問。甲の罪責については、不真正不作為犯がメイン論点です。これは、誰もが気付いたことだろうと思います。しかし、その問題の所在を的確に捉えた答案は、皆無に近いようです。

2.不真正不作為犯の成立に必要な作為義務については、従来、法令、契約(事務管理を含む)及び条理の3つの類型から生じるとされていました(形式的三分説)。しかし、これでは作為義務の実質的な発生根拠が明らかになっていないとして、実質的根拠を探求するようになります。様々な説が唱えられるようになりましたが、概ね共通するところは、最低限必要な要素として法益の排他的支配が念頭に置かれていたことです。議論の焦点は、排他的支配を前提としつつ、プラスアルファとしてどのような要素を要するか。先行行為による場合に限るべきか、法益支配を自ら設定する必要があるか、さらに作為が期待される規範的要素が必要であるか。そういったことが、主に論じられていました。排他的支配が必要であることは当然視され、さらに限定する要素の内容が議論されていたわけです。
 ところが、近時はむしろ、排他的支配自体が過度の要求ではないか、という点が、論点になっています。作為犯においても、完全な排他的支配は要求されていないのに、不作為犯にこれを要求するのはおかしいのではないか、というのです(※1)。特に問題なのは、排他性を要求すると、同時犯の余地がなくなってしまうのではないか、ということです。

※1 現在はあまり議論されていませんが、殺人が念頭に置かれすぎているという点も問題です。告知すべきことを告知しない不作為による詐欺が問題とされる場合がありますが、この場合に法益の排他的支配を要求するのは明らかに不合理です。「相手方の財産を排他的に支配していないと詐欺が成立しない」ということになり、移転罪である詐欺の本質に反するからです。また、「基準行為をしない」という意味において不作為犯と同様の構造を持つ過失犯の注意義務についても、排他的支配は要求されていません。今後は、このような点からも排他的支配についての再検討がされることになるのではないかと思います。

3.排他的支配が要求されたのは、「生かすも殺すもその人の意思次第」という状況に、作為との同価値性を見出すということでした。他に容易に救助可能な第三者が存在すれば、「その人が放置して死亡させようとしても、第三者が救助してしまえば助かってしまう」という意味において、ピストルで射殺する等の作為と同価値であるとはいえないということです。
 ところが、排他性を文字通りに考えると、複数の排他的支配はおよそ両立し得ないことになります。排他性のある物権について、単独所有が両立することがないのと同じです。抽象的には、それはそれで、別におかしくないとも思えますが、具体的事例を考えると、おかしな場合があることに気付きます。
 子供が溺れていて、母親と父親が、互いに意思の連絡なく子供を放置し、子供が溺死したとします。母親が放置しても、父親が助ければ子供は助かりますから、母親には排他的支配がない父親も同様です。しかし、これでは母親も父親も不作為犯とならず、誰も責任を負わないことになりかねません。条件関係における択一的競合に似た不合理が、ここにある。これをどう解決するかが、現在の不作為犯論の最前線の議論です。そして、本問では、まさにこの点が問われていたのです。

4.本問では、最後の授乳等から48時間を超えると、病院に連れて行かなければAは助からなくなります。病院に連れて行くことは、甲も丙も可能です。甲が放置しても、丙が病院に連れて行けば、Aは助かってしまう。「Aを生かすも殺すも甲の意思次第」という状況ではないのです。丙が放置した場合も、甲が翻意して病院に連れて行けば同様です。ですから、甲も丙も、Aの生命を排他的に支配しているとはいえない事案なのです。しかし、甲も丙も不作為犯にならないというのはおかしい。これを、どう考えるかです。

5.一つの解決策は、甲と丙を共同正犯とすることです。この場合は、共同でAの生命を排他的に支配したといえますから、問題なく両者の罪責を問うことができます。敢えて物権でたとえれば、共有のような状態です。しかし、本問では、「丙は、私の意図に気付いていないに違いない」という甲の認識が問題文に書かれていますから、暗黙の意思の連絡を認める余地がありません(※2)。従って、本問では、甲と丙を共同正犯とする解決はできないことになります(※3)。

※2 実際には、このような事例は考えにくいでしょう。Aが目に見えて衰弱すれば、丙が異変に気付くと考えるのが通常ですから、甲が本問のような認識であるとの認定を裁判所がすることはほとんどないからです。そもそも、捜査段階の甲の取調べにおいて、「でも、普通丙さんも気付きますよね?」「まあ、そうですね」「じゃあ、丙さんも気付くだろうと薄々感じてたんじゃないですか?」「そう言われればそうだと思います」というようなやり取りで、暗黙の意思連絡を認める供述を取るはずです。前記3で「意思連絡なく両親が放置して子が溺死する」という事例を挙げましたが、これも実際には考えにくい設定です。ですから、この問題は、条件関係における択一的競合と同様に、教室設例的な要素が強い論点なのです。
※3 仮に片面的共同正犯肯定説に立ったとしても、それは、甲の行為を利用した丙について、甲の行為によって生じた結果も帰責されるという帰結を導き得るに過ぎず、丙の行為を利用する意思のなかった甲について、丙の行為により生じた結果まで帰責されることを意味しませんから、甲の罪責を論じるに当たっては同様の結論となるでしょう。片面的共同正犯の場合、共同正犯の効果としての因果関係の拡張も片面的に生じることに注意が必要です。

6.残された解決策は、排他的支配を緩和する方法です。大きく分けて2つのアプローチがあるでしょう。
 一つは、厳密な意味での排他性を要求しない考え方です。例えば、他に数百人の救助可能な第三者がいれば、排他性がないことは明らかです。しかし、他に1人いたというだけでは、その人が救助するかどうかは確実ではないわけですから、それだけで直ちに排他性は否定されない。本問でも、丙がいるというだけでは、排他性を否定するには足りないのだ、という立論です。実戦的には、丙が世話をしなくなっていたという事情も、付随的に挙げることができるでしょう。この考え方は、それなりの説得力はありますが、では、他に何人いれば排他性が否定されるのか、という問いに明確に答えられない点で、不十分さが残ります。
 もう一つは、排他性の要求は維持しつつ、支配の範囲を緩和する。すなわち、危険の発生から結果に至るまでの全部の支配は必要ではなく、一部の支配で足りると考える方法です。作為の場合でも、例えば、救助可能な第三者が大勢いる目の前で、人の胸部をナイフで刺す行為は、仮に救命されたとしても殺人未遂となることに疑いはありません。同様に、危険が切迫化する過程について排他的支配があれば、その後に救命可能な第三者が存在していたとしても、作為と同価値であると評価できる、という立論です。本問では、授乳については甲しか行えないわけですから、病院に連れて行かなければ救命できない事態に至るまでの過程については、甲が排他的に支配していたということが可能です。この点をもって、作為義務を認めるには十分であるとするわけです。当サイトの参考答案は、この考え方に立っています。
 なお、学説上は、従来の排他的支配に代えて、結果原因(危険源や脆弱性)の支配をメルクマールにしようという考え方が有力になりつつありますが、そこでいう「支配」が全く排他性を有しないものでもよいのか(結果原因を支配する者が複数人いても作為義務が併存し得るのか)、法益支配の場面が結果原因の段階に限られるのか(当該結果原因から生じた危険が現実化するまでの過程の支配(本問の丙)を積極的に除外する趣旨なのか)という点について、不明確さが残ります。

7.このように、本問は、不作為犯についての最先端の論点を問う問題でした。ただ、筆者が聞く限りでは、ほとんどの受験生が何の疑いもなく簡単に甲の作為義務を肯定してしまったようです。ですから、この点に答えられなくても、合否に全く影響しないでしょう。考査委員は、ガッカリしながら採点することになりそうです。覚えた規範を貼って当てはめるだけの答案が結果的に上位の合格答案になるのは、このような最先端の論点を訊いても、誰も答えられないからです。

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