表現規制が直接的か間接的付随的かで
審査基準が異なる構造的な理由

1.判例のいう表現の自由に対する直接的制約、すなわち、意見表明そのものの禁止をねらいとする制約というのは、「およそこんなの世に出しちゃいけないやつ。」を禁止するものです。なので、その際に考えるべきは、「この表現はおよそ世に出しちゃいけないやつか。」ということに尽きるのであって、他の権利利益との個別的な考量は問題になりません。これが、定義付考量を用いる根拠です(「表現の自由の直接的制約における審査基準としての定義付考量」)。
 そして、「世に出しちゃいけないやつ。」であると判断された場合には、「世に出しちゃいけないやつだから。」という、それだけの理由で制限できます。例えば、わいせつ表現については、「わいせつ表現である。」という、ただそれだけの理由で制限できる。すなわち、「わいせつ表現を規制するためには、特別の正当化理由が必要である。」という命題は成り立たない。憲法で保障されるということの意味は、特別の正当化理由がなければ制限されない、ということにあります。このことを理解していれば、「わいせつ表現を規制するためには、特別の正当化理由が必要である。」という命題が成り立たないということは、すなわち、「わいせつ表現は、憲法で保障されない。」ということと同義であることがわかるでしょう。これらのことは、一般に直接的制約が妥当するとされる名誉毀損表現、せん動表現等にも当てはまります。
 以上の点は、内容規制・内容中立規制の二分論とは別次元で成立する論理なので、例えば、内容規制・内容中立規制の二分論を採用する高橋和之教授も、同二分論を否定する市川正人教授も、判例のいう直接的制約に相当する場合については、定義付考量のアプローチを採用します。また、両者はともに、保護されない表現類型を厳しく限定し、裁判所の恣意を許しません(司法試験定義趣旨論証集(憲法)「確立された類型に限る理由」の項目も参照)。この点は、範囲の不明確な「低価値表現」の概念とは異なる点です。

2.判例のいう表現の自由に対する間接的付随的制約は、意見表明そのものの禁止をねらいとしないわけですから、他にねらい(規制目的)がある。すなわち、間接的付随的制約というのは、「Aという目的を達成するために規制を作ったら、巻き添えで表現の自由が制限されちゃう。」というものです。この場合、Aという目的が「権力者の私利私欲を満たすため」とかであってはいけない。だから、目的が正当であること、より具体的には、「公共の福祉に適合すること」が要求されます。これは、立法権の範囲・限界を画する憲法上の要請でもあります。かつての明治憲法は、「人権を制約するには法律が必要である。」という意味での「法律の留保」がありました。現在の日本国憲法では、「人権を制約するには法律が必要である。」という意味での「法律の留保」は、直接人権規定に記載はないけれども、41条の「唯一の立法機関」がその趣旨を含んでいます。さらに、12条後段、13条によって、「人権を制約するには公共の福祉を図る目的が必要である。」という意味での留保、敢えていえば、「公共の福祉の留保」とでも呼ぶべき原理が明確にされたのでした。

貴族院帝国憲法改正案特別委員会昭21・9・16より引用。太字強調、※注及び現代表記化は筆者。)

大河内輝耕子爵 此の公共の福祉に反する場合は、法律で制限を受けることは無論でございませうが、法律以下の政令あたりでも其の制限を受けますか、さうすると、今の憲法(※注:明治憲法を指す。)よりも権利の擁護は少し薄くなるやうな気がしますが、其の邊はどう云ふ御考へでございますか

金森徳次郎国務大臣 現在の憲法に於きましては、各人の権利の輪郭を法律で決める、憲法上保障してありまする各程の自由権でありましても、大体は法律を以て決めると云ふことになつて居りまして、例へば法律の範囲内に於て、或は法律の定むる所に依りと云ふ風に制限せられて居ります、其の趣旨は命令ではいけないのだ、しかしながら議会の協贊を経たる法律であれば、制限をしても宜い、斯う云ふ風に読めるのであります、しかし其の背後にありまする考としては、議会が勝手に制限し得ると云ふのではなくて、矢張り公益上必要なると云ふ趣旨の下に、議会が法律を以て制限し得ると云ふ精神であらうと思つて居ります、しかし其の最後の精神が現行の憲法の中には現れて居りませぬそこで此の憲法(※注:日本国憲法を指す。)は、其の最後の精神の方を押へて來まして、公共の福祉と云ふことで以て各権利の枠附けをした訳であります、現実にそれが法律で具体化するのであるか、命令で具体化するのであるかと云ふことは、此の憲法が直接に規定して居りませぬ、そこで今御質疑になりましたやうに、命令を以て枠附けが出來るのではないかと云ふ御疑問が起る次第と考へて居ります、所が他の一面から見ますると、此の憲法は、全体と致しまして国民の自由、権利に制限を加ふるのは、必ず法律でなければならぬと云ふ原則を基本的に執つて居る訳であります、其のことは、直接には何所にも書いてありませぬけれども、現在の憲法の如く、命令立法と云ふものを限定してしまひまして、現在の憲法の下に於きましては、第九条の所謂命令に依る一種の立法権が認められて居るのでありまするから、それで以て個人の自由を制限出來ますけれども、今度の政令は、さう云ふ風な独立の働きは認めて居りませぬ、法律の執行と行ふ点、或は憲法の執行も含んで居りまするが、事実法律の執行と云ふことになつて居りますが、其の執行だけの範囲に於て、政令を認める、更に又恐らくは法律の委任に依る政令と云ふものは解釈上生れて來ると思ひますけれども、直接に自由、権利を制限する権能は認めて居りませぬ、そこで、今囘の改正に於きましては、国民の基本的自由と云ふものは、枠は直接に公共の福祉と云ふことで枠附けられて、之を具体化するにしましても、必ず法律を以てしなければならぬ、斯う云ふことになります、若しも其の法律が所定の枠附けの範囲を離脱致しますれば、最高裁判所が審判する、斯う云ふ風になつて居りますから、国民の権利は非常に確実に保障せられると云ふことになりまして、現在よりも遙かに強くなつて居ります、薄くなつて居ると云ふ点は一つもないと考へて居ります

大河内輝耕子爵 私素人で能く分りませぬが、さう云ふ規定が直接になくても、濫用されるやうな虞は、法律的に考へても亦政策的に考へてもないものでございませうか、何か矢張り書いて置かないと不安心のやうに考へますが、其の点は如何でございますか

金森徳次郎国務大臣 それは書いてないと云ふ訳ではございませぬ、唯直接に露骨に書いてないと云ふだけでありまして、 国会に関する規定の所の国会と云ふものは国の唯一の立法機関であると書いてあります、この立法と申しまするのは、人の権利義務を規律しまする力と云ふものを骨子として居る訳であります、だから、人民の権利義務を規定するのは法律である、しかも其の法律を決めるのは議会に限るのだ、斯う云ふ規定がありますので、其の点に付ては疑がないと思つて居るのであります

(引用終わり)

 

 この「法律の留保から公共の福祉の留保へ」という変動は、初期の頃の最高裁の考え方を理解する上で重要です。すなわち、明治憲法における「法律の留保」は、「議会が法律で権利制限を定めた以上は、裁判所は法律の内容を審査しない。」という意味を持ち得るものでした。同様に、日本国憲法の「公共の福祉の留保」は、「法律の目的が公共の福祉に適合する以上は、裁判所は手段の合理性を審査しない。」という意味を持ち得るものです。初期の頃の最高裁が、「公共の福祉に適合する」というだけで簡単に合憲としていたのは、この考え方によります。現代的な言い方をすれば、「目的審査しかしない」という時代です。行政法的にいえば、目的はき束されるが、手段は自由裁量だった時代。このことは、最高裁長官を務めた横田喜三郎が、その論文「立法府の裁量権と司法権」において述べた、「目的が正当であり憲法の枠のうちにあるならば、目的に適合し憲法と両立するところのすべての手段は合憲的である。」、「裁判所は手段が必要か賢明かについて審査しない。」という言葉に明確に表れています。その後、行政法学の分野において自由裁量が文字どおりの自由裁量でなく、逸脱濫用の審査がされるという考え方が主流になると、その考え方が立法裁量にも輸入されて、現在の判例法理となっていくわけですが、ここでは立ち入りません。差し当たり、判例において、「公共の福祉に適合するから目的は正当」という言い回しがよく用いられるのは、このような意味だ、ということを理解しておけば十分でしょう。

 次に、「Aという目的を達成するために規制を作ったら、巻き添えで表現の自由が制限されちゃう。」という規制を作る場合には、「その規制ってガチでAの目的のためになるの?」、「そうだとしても、表現の自由が巻き添えにならない方法って考えられないの?」ということを考える必要があるでしょう。規制手段がAという目的のために何の役にも立たない(関連性がない)のであれば、それはやっちゃいけないやつです。また、Aという目的を達成する手段は色々あって、その中には表現の自由を制限してしまうものもあるでしょうが、そうでないものもあるかもしれない。制限が避けられないとしても、もっとマシなやり方があるかもしれない。仮に、もっとマシな手段があるなら、その手段を用いるのがリーズナブル、すなわち、合理的といえます。こうして、手段の関連性・合理性が問われる。これを、判例は「合理的関連性」と表現しているのでした。

 最後に、「表現の自由の制限を伴ってまで、Aという目的を達成する必要があるの?」ということも、考える必要があるでしょう。表現自体がけしからんから規制する、というのではなくて、Aという目的のために表現の自由には泣いてもらう、というのですから、そこまでしてやらなきゃいけないものなの?という疑問が生じるのは当然です。これは、判例のいう得られる利益と失われる利益の考量を意味します。

 以上のことは、「Aという目的を達成するために規制を作ったら、巻き添えで表現の自由が制限されちゃう。」という構造から、論理必然的に出てくる要素です。このことを理解すると、学説のいう内容規制・内容中立規制による二分論とは全然意味が違うことがわかる。例えば、青少年保護のための有害図書規制は、同二分論によれば内容規制に分類されます。しかし、青少年保護のための有害図書規制は、「有害図書はおよそ世に出しちゃいけないやつ。」だから規制するのではありません。大人が嗜む分には、全然問題ない。ただ、青少年の目に触れるとよろしくないので、青少年の目に触れないように規制をしたら、表現の自由や大人の知る自由まで巻き添えで制限されちゃうよね、という場合、換言すれば、青少年保護のためには表現の自由や大人の知る自由には泣いてもらおう、という規制です。なので、判例の考え方からは間接的・付随的規制ということになる。そして、青少年保護は公共の福祉に適合する正当なものか、規制手段によってガチで青少年保護が達成できるのか、表現の自由や大人の知る自由が巻き添えにならない手段はないか、巻き添えが避けられないとしても、もっとマシな手段はないか、表現の自由や大人の知る自由を犠牲にしてまで青少年保護を図る必要があるのか、という点が、審査の対象となるわけです。

3.ここまで、憲法の皮をかぶらせて説明してきましたが、これは実際には、規制法を立案する際の立法技術上の観点にほかなりません。判例・政府見解には、このようなそれなりの構造的なバックボーンがあるので、単に「緩やかだからけしからん。」等と批判されても、なかなか受け入れられるものではないだろうと、筆者は思います。 

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