立証対象を把握する
(令和5年予備試験民事実務基礎)

1.令和5年予備試験民事実務基礎設問4小問(2)。以前の記事(「ヒントをヒントとして認識する(令和5年予備試験民事実務基礎)」)で、「事実認定を勉強している人であれば、小問(1)を見ただけで、「二段の推定の一段目の前提事実は争わないで、一段目の推定に対する冒用型の反証をするってことね。」とわかるでしょう。……(略)……ここまでわかれば、冒用型反証の成否、すなわち、預託の事実を認定できるかについて解答すればよい、というのが明らかです。」と書きました。もっとも、「なんでそうなるのよ?」と思う人もいるでしょう。端的にいえば、「一段目の推定を真偽不明にするためには、預託の事実が必要で、かつ、それで十分だから。」ということになるのですが、「だからなんでそうなるのよ?」という人もいるでしょうから、その点の意味を詳しく説明しておきましょう。

2.まず、通説によれば、「二段の推定は、一段目の推定、二段目の推定のいずれも、事実上の推定であって、これを破るのは反証の程度で足りる。」と説明されます。「事実上の推定であって」とは、法律上の推定ではないので、立証責任の転換が生じないことを意味します。本問でいえば、Yの意思に基づく押印であることの立証責任を負っているのは書証申請するXの側ですから、XがYの意思に基づく押印であることを「証明」しなければならない。「証明」に必要な立証の程度は、通常人が疑いを差し挟まない程度です。通常人が疑いを差し挟まない程度の立証のことを「本証」といいます(※1)。
 ※1 厳密には、一般の訴訟上の立証の程度と、証拠能力を基礎付ける補助事実の立証の程度というのは、別途の議論があり得るところですが、司法試験レベルでは、同じと考えておいて問題ありません。

ルンバール事件判例より引用。太字強調は筆者。)

 訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。

(引用終わり)

長崎原爆被爆者事件判例より引用。太字強調は筆者。)

 行政処分の要件として因果関係の存在が必要とされる場合に、その拒否処分の取消訴訟において被処分者がすべき因果関係の立証の程度は、特別の定めがない限り、通常の民事訴訟における場合と異なるものではない。そして、訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではないが、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とすると解すべきである

(引用終わり)

顆粒球減少症事件判例より引用。太字強調は筆者。)

 訴訟上の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実の存在を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挾まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。

(引用終わり)

 本問における立証責任の転換が生じないということの意味は、推定の前提事実が認められても、なお、XがYの意思に基づく押印であることの立証責任を負っており、通常人が疑いを差し挟まない程度の立証をしなければならない、ということです。「それじゃ、意味ないじゃん。」と思うかもしれませんが、そうではありません。印影がYの印章によることについて争いがなく、事実と認められた段階で、「本件契約書にYの印章が押されてるよね。普通は自分の印章は他人に使わせないよね。だったらそれ、Yが自分で押したってことじゃん。」と通常人は特に疑いを持たずに考えるだろう。すなわち、通常人に疑いを生じさせるような反対の事実が立証されない限り、「通常人が疑いを差し挟まない程度の立証」がされたと扱われる。Yの側で、通常人なら疑いを持つような事実を主張・立証しなければ、そのままYの意思に基づく押印であると認められてしまう。これが、「事実上の推定」の意味であり、「通常人なら疑いを持つような事実の主張・立証」が「反証」を意味します。よく、「反証は真偽不明にする程度で足りる。」と言われますが、これは、通常人が疑いを差し挟む、すなわち、「その事実はなかったかもしれないんじゃね?」と疑問を持つ状態を、「真偽不明」と表現しているのです。

3.さて、本問で、「本件契約書にYの印章が押されてるよね。普通は自分の印章は他人に使わせないよね。だったらそれ、Yが自分で押したってことじゃん。」という状態から、「押したのはYじゃないんじゃね?」という疑いを生じさせるには、どのような事実を立証することが必要で、かつ、十分か。Qは、預託した印章をAが勝手に冒用した、と主張し、Yもこれに沿う供述をしています。

問題文より引用。太字強調は筆者。)

【Yの供述内容】

 「……(略)……ちょうど同じ令和4年8月にAが就職し、私の自宅を出て一人暮らしをすることになり、アパートの賃貸借契約を結ぶことになりましたが、賃貸借契約に保証人が必要とのことでしたので、私は、保証人になることを承諾し、Aに私の実印を預け、印鑑登録証明書を渡したことがありました。実印は1週間くらいで返してもらいましたが、この時に預けた実印を悪用し、本件契約書に私の実印を無断で押したのだと思います。……(略)……」

 (中略)

(1) 弁護士Qは、本件契約書のY作成部分の成立を否認するに当たり、次のように理由(民事訴訟規則第145条)を述べた。以下の⑤及び⑥に入る陳述内容を記載しなさい。

 「本件契約書のY名義の印影が〔 ⑤ 〕ことは認めるが、同印影が〔 ⑥ 〕ことは否認する。YがAに預託した実印を、Aが預託の趣旨に反して冒用したものである。」

(引用終わり)

 仮に、「預託されたYの印章をAが無断で本件契約書に押した。」という事実が認められたとします。これは、「通常人なら疑いを持つ」というレベルじゃなくて、「Yの意思に基づく押印じゃないこと確定」です。これは、「Yの意思に基づかないこと」を本証レベルで立証してしまっているので、やり過ぎ。そこまでやらんでいい。では、どの程度で足りるのか。それは、「Yが印章を(アパートの賃貸借の保証の趣旨で)Aに預託したこと」です。「YがAに使わせてた。」という事実が認められれば、当初は、「本件契約書にYの印章が押されてるよね。普通は自分の印章は他人に使わせないよね。だったらそれ、Yが自分で押したってことじゃん。」と思っていた通常人としては、「他人に使わせないって話だったのに、Aに使わせてたの?話が違うじゃん。」となるわけで、「だったら、Aが預かってる間に押したかもしれないじゃん。」という疑いが生じる。もちろん、Aがきちんと返して、その後にYが自分で押したかもしれないし、YがAに預託している間に、「ついでに本件契約書にも押印しといてよ。」と頼んだかもしれない。それはわからない。でも、真偽不明にはなっている。だから、「Yが印章を(アパートの賃貸借の保証の趣旨で)Aに預託したこと」の事実が認められることの立証が必要で、かつ、それで十分だといえるわけです。
 ここでいう、「Yが印章を(アパートの賃貸借の保証の趣旨で)Aに預託したこと」の事実については、事実と認定できること、すなわち、本証の程度の立証を要します。「他人に使わせないって話だったのに、Aに使わせてた。」という事実が認定できて初めて、「Aが預かってる間に押したかもしれないじゃん。」という疑いが生じると考えられるからです。「YがAに預けたかもしれないし、預けてないかもしれない。」という程度では足りない(※2)。その意味で、これは間接反証の一種であるということができるでしょう。
 ※2 「YがAに預けたかもしれないし、預けてないかもしれない。」という程度でも、「ひょっとしたらYの意思に基づかないかもしれない。」という疑いを生じさせるから、真偽不明にする反証として十分じゃないの、と思った人もいるかも知れません。しかし、それでは何らの証拠も示さないで、「預けた。」と言いさえすれば、推定を覆せることになってしまいます。理論的にも、「普通は自分の印章は他人に使わせないよね。」という経験則を前提にすれば、「YがAに預けたかもしれないし、預けてないかもしれない。」という程度なら、「まあ普通は預けてないよね。」という方向の推認がなお働くので、真偽不明にはなっていない。これが、通説の立場です。

 一般的な事実認定本では、「預託型では、預託の事実と、預託の趣旨が重要だ。」という説明がされているのですが、ここでいう「預託の趣旨」というのは、本問では、アパートの賃貸借の保証の趣旨であったことがこれに相当します。これがどうして重要かというと、これが、仮に車購入の保証にも使ってよい趣旨なら、Aが本件契約書に押印したとしても、Yの意思に基づくといえるため、反証とはなり得ないからです。もっとも、本問では、本件売買契約の代金の保証にも使ってよい趣旨をうかがわせる事実が全く存在しないので、この点を正面から答案で検討する必要はありません。上記の説明において、「Yが印章を(アパートの賃貸借の保証の趣旨で)Aに預託したこと」というように、預託の趣旨を括弧で括っているのは、その意味です。

4.以上の説明を理解すれば、冒頭で挙げた、「一段目の推定を真偽不明にするためには、預託の事実が必要で、かつ、それで十分だから。」ということの意味がわかるでしょう。一般的な事実認定本では、物凄い勢いで端折った内容が書かれているので、結論はわかっても意味はわからないことが多いのですが、それは、真面目に説明すると本が分厚くなりすぎて困るからです。

5.では、本問で預託の事実は認定できるのか。次回、その点を説明しましょう。

戻る