1.令和6年予備試験憲法。多くの人が、「政教分離?」と思ったことでしょう。空知太事件を彷彿とさせる事実が、記載されているからです。
(問題文より引用) C神社は宗教法人ではなく、氏子名簿もない。かつて火事で鳥居を除いて神社建物が失われたため、同所にA町内会が、御神体を安置した集会所を建設した。集会所入り口には「A町内会集会所」「C神社」と並列して表示されている。集会所は大きな一部屋から成る建物であり、平素から人々の交流や憩いの場となっている。C神社には神職が常駐しておらず、日々のお祀(まつ)りは集会所の管理と併せて、A町内会の役員が持ち回りで行っている。年2回行われるC神社の祭事では、近隣から派遣された宮司が祝詞をあげるなど、神道方式により神事が行われるほか、集落に伝えられてきた文化である伝統舞踊が、神事の一環として披露される。祭事の準備・執行・後始末などを担当しているのは、A町内会の会員である住民である。住民の中にはC神社の氏子としての意識が強い者もいれば弱い者もいるが、住民のほとんどはC神社の祭事をA集落の重要な年中行事と認識している。 (引用終わり) |
とはいえ、ほとんどの人が、「でもこれ私人間効じゃん。直接適用したら終わるわ。」と気が付いたことでしょう。
(問題文より引用。太字強調は筆者。) A町内会は、A集落の住民が自治的に組織した任意団体であり、地方自治法第260条の2の「認可地縁団体」(資料参照)であって、現在の加入率は100パーセントである。 (中略) 会員Eは「A町内会は任意の私的団体なのだから、私たちが決めたやり方でいいはずだ。」と言い……(略)……。 (中略) 【資料】地方自治法(昭和22年法律第67号)(抄録)
第260条の2 町又は字の区域その他市町村内の一定の区域に住所を有する者の地縁に基づいて形成された団体(以下本条において「地縁による団体」という。)は、地域的な共同活動を円滑に行うため市町村長の認可を受けたときは、その規約に定める目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。 (引用終わり) |
A町内会は、どうみても公権力主体ではありません。地自法260条の2第1項に「目的の範囲内」とあるので、「ああ例のアレね。」と気付くようになっていますし、「認可によって公共団体になっちゃうかも?」と思ってしまわないように、わざわざ同条6項まで掲げてある(※1)。このような誘導には、素直に従うべきでしょう。平成20年度旧司法試験で出題されたときよりも、ヒントを増やして分かりやすくしてくれているわけですね。
※1 学部やローで地方自治法の講義を聴いていて、認可地縁団体について、「従来の町内会は権利能力のない社団だったから、代表者の個人名義でしか登記できなくて、代表者の相続人が個人資産として売却しちゃったりするトラブルが頻発したので、法人格を認めて町内会名義で登記できるようにしたんだよね。」という感じの話があったことを何となく覚えていれば、認可は単に法人格を付与するだけの意味しかない、ということに自信が持てたことでしょう。ちなみに、令和3年法律第44号による改正前の地自法260条の2第1項は、「地域的な共同活動のための不動産又は不動産に関する権利等を保有するため市町村長の認可を受けたときは」という文言で、上記の趣旨がより明確でした。それが、同改正によって、「のための不動産又は不動産に関する権利等を保有する」が「を円滑に行う」に改められました。これは、改正前の文言だと不動産等を保有していないと法人化できないという不都合があったためで、基本的な趣旨に変わりはありません(参院地方創生及び消費者問題に関する特別委員会令3・5・14阿部知明総務省大臣官房審議官答弁)。
(平成20年度旧司法試験第二次試験論文式試験問題と出題趣旨より引用) 【憲 法】 第1問
A自治会は,「地縁による団体」(地方自治法第260条の2)の認可を受けて地域住民への利便を提供している団体であるが,長年,地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体から寄付の要請を受けて,班長らが集金に当たっていたものの,集金に応じる会員は必ずしも多くなかった。 (出題趣旨) (引用終わり) |
なので、試験現場のプレッシャーを受けることなく余裕な人が冷静にこの問題を見れば、「これで政教分離を直接適用するやつなんていねーだろ。」と思うところです。
2.ところが、実際に試験を受けた人の中には、堂々と政教分離規定を直接適用した人が一定数いたはずです。そのような人も、A町内会を国とか公共団体と誤解したわけではなく、また、「私人間効は直接適用説が判例・通説だ。」と勘違いしていたわけでもない。おそらく、試験当日でなければ、「私人間だから政教分離は直接適用できないよね。せいぜい当てはめで趣旨を考慮するくらいだよね。」という感じで普通に処理できたことでしょう。それが、試験当日になると、「これは、一見無理そうな政教分離直接適用をやってみせろという出題意図に違いない。さすが本試験だ。」、「町内会の特殊性に着目して政教分離が直接適用できることを示したらホームランかも。今まで考えたことのない素晴らしい問題だ。」などと思ってしまう。それで、悪魔に魅入られたかのように、政教分離規定を直接適用してしまうのでした。
3.本問は、団体の費用徴収決定が構成員の信教の自由と対立する場合の処理を問うものなので、国労広島地本事件、南九州税理士会事件、群馬司法書士会事件などの判例(「令和6年予備試験憲法の参考判例等」)を参照しつつ、「目的の範囲」と「(事実上の強制加入団体における)協力義務の限界」について、それぞれ規範を明示し、当てはめる必要があります。政教分離を直接適用し、目的効果基準や空知太事件判例、孔子廟事件判例のような規範を当てはめて結論を出す答案は、「目的の範囲」と「協力義務の限界」についての規範の明示に配分された大きな配点を全く取ることができないので、それだけで評価を落とすでしょう。当てはめの要素は共通するので、そこを頑張れば、何とか挽回できるかもね、という感じです(※2)。なので、「直接適用できる理由を自分なりに書いていれば大丈夫」なんてことはないと思います。
※2 「目的の範囲」と「協力義務の限界」についての規範の明示すらできない人が相当数いた場合には、当てはめで頑張るだけで逆転できる可能性もあるでしょう。いずれにせよ、挽回のカギは当てはめであって、「直接適用できる理由が説得的か。」ではありません。
4.もっとも、ミスは誰にでもある。とりわけ、上記2で説明したとおり、本試験には、魔力があります。普段ならやらないようなとんでもないことを、なぜかやってしまう。重要なことは、「同じミスを繰り返さないこと」です。本問の場合、仮に、政教分離直接適用の構成を思い付いたとしても、同時に、間接適用(※3)の構成も考えることはできたはずで、どっちがより安全かを比較して考えれば、判断は容易だったはずなのです。判例・通説は直接適用説ではないし、町内会に限って直接適用できるとか、政教分離に限って直接適用できるなんて話は一度も聞いたことがない。公共性や公益性で直接適用できるなら、税理士会や司法書士会も直接適用になってしまうだろう(※4)。そんな話は、聞いたことがない(※5)。他方で、団体が構成員に費用負担を求める構図なんだから、国労広島地本事件、南九州税理士会事件、群馬司法書士会事件などを想起すれば、これらの事件では構成員の思想・良心の自由が問題になっていたけれど、本問ではそれを信教の自由に置き換えればよさそう。これで何も無理がない。当てはめの中で政教分離的な要素を加味することと、政教分離規定を直接適用してしまうのと、どっちが無理がないか、比較すれば明らかです。仮に、直接適用構成を一瞬思い付いたとしても、「ちょっと待てよ。間接適用の処理も考えてみよう。ああ、全然普通じゃん。こっちの方が安全だ。」と判断できたはず。本試験現場で平然と直接適用してしまう人は、普段からこのようなチェックをする工程が方法論として組み込まれていなかったのです。「ピコーン!いいこと思い付いた!これで書くぞ!」と突っ走ってしまう。今回はチェック不足で直接適用してしまった人も、今後は演習を通じて、このようなチェックをするクセを付ければ、同じミスはしなくなることでしょう。予備試験の論文は、憲法、行政法、民法、商法、民訴法、刑法、刑訴法、民事実務基礎、刑事実務基礎、選択科目の10科目もあります。ミスを防ぐ適切な方法論を確立していない人は、毎年いくつかの科目で致命的なミスをする。そのような人は、よほど運が良くないと、合格できません。普段の演習を通じて、くだらないミスをしないように、ミスを防ぐ作業工程を確立しておく必要があるのです。
※3 団体・構成員間の関係の場合には、そもそも間接適用ですらない、という考え方が現在ではむしろ普通ですが、ここでは便宜上、「間接適用」と表現します。
※4 宗教系の私立学校を想起できれば、公共性・公益性があるから政教分離直接適用なんてあるわけない、ということに気が付きやすかったかもしれません。
※5 厳密には、税理士会や司法書士会を政府機関の一端を構成するものとする渋谷説があります(渋谷『憲法〔第3版〕』(有斐閣 2017年)160頁)。
5.受かりにくい人には、典型的な行動様式があります。それは、「ミスをしても反省しようとしない。」ということです。本問で直接適用をしてしまっているのに、上記のような修正をしようとするどころか、「直接適用でも間違ってないはずだ!」と言って、何も反省しない。だから、翌年もどこかで同じような致命的なミスを繰り返すことになります。もっとも、このことは、人間であれば自然なことでもある。まだ結果が出ていない時点では、ミスを認めるのは不安材料を増やすことになるでしょう。「俺は間違ってない。」と思い込む方が、安心できる。だから、脳は、無意識のうちに、そのように考えよう、考えようと誘導してくるわけですね。「ミスじゃないことにしようよ。そしたら安心でしょう?」という誘惑です。これに負けると、受かりにくくなる。論文式試験は、人間が自然に持つ弱さとの戦いでもあるのです。
冷静に考えれば分かることですが、既に受験した試験の結果は、今の段階でいかに努力したとしても、変えられません。例えば、本問について、「直接適用してしまいましたが大丈夫ですよね?」などと誰かに質問して、「大丈夫ですよ。」と答えをもらったとしても、結果は変わらない。他人に議論を吹っ掛けて、「直接適用でも大丈夫だろうがよ。参ったか。」と論破しても、結果は変わらない。既に終わってしまったものは、どうにもならないのです。それでも、来年以降の結果は、今から努力することで、どうにかすることができる。できることは、「今年のミスをなかったことにする。」ことではなくて、「来年も同じようなミスをしないようにするには、どうしたらいいか。」を考えること、自分のミスを認めることは、その第一歩です。過ちは、認めて次の糧にすればよいのです。