実質的関連性で狭義の比例性を
書くのは間違いという話

1.「実質的関連性」については、「実質的」の部分に何でも入りそうなイメージがあるためか、「何でもアリなんじゃね?」と誤解されています。その典型が、「実質的関連性の当てはめで狭義の比例性を検討しても大丈夫」というものです。結論からいえば、実質的関連性の当てはめと称して、当然のように狭義の比例性を検討すれば、積極ミスとして減点されてもやむを得ないでしょう。以下のとおり、「実質的関連性」には、狭義の比例性は含まれないからです。

2.まず、三段階審査論・比例原則に立つ論者は、関連性(適合性)、必要性(LRA不存在)、狭義の比例性(相当性)を区別して使い分けるのが通例ですから、「実質的関連性」の概念の中に狭義の比例性が入る、ということはありません。これは、さほど説明を要しないでしょう。

3.では、伝統的な違憲審査基準論の論者は、どうか。伝統的な違憲審査基準論の論者は、「実質的関連性」の中にLRA不存在ないし必要最小限性も含めて説明するのが通例です(※1)が、ごく少数の例外(※2)を除き、狭義の比例性を含めることは決してありません。それは、違憲審査基準論の本質に関わるからです。
 ※1 その経緯については、市川正人「厳格な合理性の基準」についての一考察」立命館法学2010年5・6号(333・334号) を参照。
 ※2 伝統的な違憲審査基準論とは異なる立場から、実質的関連性に比例原則を加味する見解を示す論文も一応ありますが(戸波江二「夫婦同氏を要求する民法750条の違憲性 (2・完)」早法91巻2号(2016) 6頁)、そのような特殊な立場を採用するのであれば、答案でその旨を明示する必要があるでしょう。なお、同論文については、注の(25)において、「比較衡量論=比例原則……(略)……のほうが……(略)……より妥当な審査方法ではないかと考えるに至っている。」(戸波前掲 10頁)とされており、現在は論者が比例原則を採ることにも留意が必要です。

 伝統的な違憲審査基準論は、判例の採る利益衡量論を、裁判官の恣意的判断を許すとか、「個人のわがままとみんなの公益」という図式になって、公益が常に優先することになりがちだ、と批判します。そこで、違憲審査基準論では、「個人の人権 対 国民全体の公益」という直接の対立図式とはならないようにする。すなわち、制約される人権の性質・規制の態様等を考慮し、あらかじめ制約を正当化するために必要な公益の水準を設定しておく。そして、問題となる規制の目的とする公益が、その水準を超えているか、という観点から、規制目的を審査する。例えば、表現の自由について、その内容に着目して規制する場合には、当該制約の正当化には、「やむにやまれぬ公共の利益」という高い水準が必要だ、と設定しておく。そして、当該規制の目的とする公益が、その水準をクリアするか、という観点から、目的を審査する。このような構造を採ることによって、「みんなの公益のためなんだから、個人が我慢するのは当たり前だ。」という図式ではなく、「その公益は本当にやむにやまれないものなの?」という図式に転換できるというわけです。さらに、「やむにやまれぬ公共の利益」を、国防、防疫、防災等の特定の類型に限り、それ以外はこれに当たらないというような目的の類型化に成功すれば、裁判官の恣意も排除できます(定義付考量と同じ発想です。ただし、この厳格な類型化は本家米国の判例でも必ずしも成功していません。)。手段審査では、専ら目的と手段との結び付き、目的達成との関係での必要最小限性等を問い、正面から制約される人権と目的とする公益との個別具体の考量は行わない。これが、伝統的な違憲審査基準論の要諦です。
 以上のように、伝統的な違憲審査基準論では、狭義の比例性に相応する審査は、目的審査で行われる。このように目的審査を捉えると、そこでいう「目的」は、単なる目標とか、規制の動機とは異なり、規制を正当化するに足りる公益であって、それは、現実に存在するものでなければならない、と理解することになります。そのように、「規制を正当化するに足りるか」、「現実に存在するか」という発想に立つと、例えば、公共の危険を理由に表現の自由を制限するという場合には、「本当に公共の危険が発生するの?それは表現の自由の制約を正当化するだけの切迫性があるの?」という点についても、目的審査で判断すべきではないか、という理解に至ります。こうして、明白かつ現在の危険の基準を目的審査に位置付ける浦部法穂説、渋谷秀樹説や、薬事法事件判例の「本当に距離制限しないと不良医薬品が流通するの?」という部分を、不良医薬品の供給防止という公益の不存在をいうものとして、目的審査の文脈で理解しようとする考え方が、違憲審査基準論から導かれるのでした。

4.以上のことを理解すれば、「厳格な合理性の基準」、「中間審査基準」のような(狭義の)違憲審査基準を採用しておきながら、簡単に目的審査をクリアさせ、手段審査において「実質的関連性」と称して狭義の比例性を検討する答案は、(狭義の)違憲審査基準の意味を全然理解していないと評価されてもやむを得ない、ということがわかるでしょう。
 前記のような、目的審査を重視する違憲審査基準論の考え方は、「目的審査は軽く流して、手段審査で当てはめ勝負」という多くの予備校が指導する書き方(≒現在の採点基準で点を取りやすい書き方)になじみません。これは、真面目に違憲審査基準論で書く答案が伸び悩む一方で、「効果的で過度でない」という9文字だけ覚えて書く答案が上位になった原因の1つでもあります(「「効果的で過度でない」基準が過度に効果的だった理由」)。
 ちなみに、判例は、公共の福祉の留保、すなわち、「人権制約立法に係る立法府の権限は、公共の福祉を目的とする範囲に限られる。」という立法権の範囲を画する概念として、目的審査を位置付けています(「表現規制が直接的か間接的付随的かで審査基準が異なる構造的な理由」も参照)。このことは、猿払事件における香城敏麿調査官の「目的違憲は……(略)……憲法上国の立法権限の範囲外のものであることを理由として、これを違憲と判断する手法である」とする指摘にも表れています(香城敏麿『憲法解釈の法理』 信山社(2004年) 49頁。立法裁量の「逸脱」と「濫用」についての判例の表記法との関係については、司法試験定義趣旨論証集(憲法)「立法裁量事項について著しい不合理性・明白性の基準が採用される理由」の項目の※注を参照)。したがって、判例の立場で書く場合には、職業の許可制のような例外を除き、公共の福祉に適合する旨を端的に指摘して、簡単に目的審査をクリアさせてよい。その意味では、実は判例による方が、「目的審査は軽く流して、手段審査で当てはめ勝負」という書き方になじみやすいのです。ここまで理解すれば、「判例が示す違憲審査基準っぽいものは、飽くまで「類型化された利益衡量論」に過ぎず、(狭義の)違憲審査基準ではない。」という違憲審査基準論者からの指摘の意味も、よくわかるでしょう。

5.これまでは、「実質的関連性」の当てはめで堂々と狭義の比例性を書く答案というのはあまりなく(LRA不存在ないし必要最小限性と善解できることが多かった。)、そのような答案も、ひどい減点をされているというようには感じられませんでした。採点実感でも、「実質的関連性の当てはめで狭義の比例性を書いた答案があった。」という趣旨のものはありません。なので、「大丈夫じゃん。」といえるかというと、そうではない。昨年の採点実感の指摘を受けて、「効果的で過度でない」を「実質的関連性」に置き換えることを推奨する言説が、SNS等で強まりました。これを真に受けて、「効果的で過度でない」を「実質的関連性」に単純に置き換える答案が、相当数出るはずです。そのような答案は、「実質的関連性」の当てはめにおいて、かつての「過度でない」と同じ感覚で、堂々と狭義の比例性を書くでしょう。そのような答案が続出すれば、考査委員も、「これは積極ミスとして減点しよう。」と申し合わせるでしょうし、採点実感でも指摘される可能性が高まります。考査委員としては、昨年の採点実感で、「効果的で過度でない」基準の使い手を事実上抹殺できたので、次は、その残党狩りをしたい。実質的関連性で狭義の比例性を書く答案を減点する、というのは、積極ミスだから減点する、という普通のことではありますが、「効果的で過度でない」を絶対に許さない、という意味で、「ちょっと強めに減点しておきますね。」という対応も、今の考査委員ならやりかねんと、当サイトは思います。 

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